1914年 5月9日、イタリア南部のバルレッタに生まれる。
1930年 ローマの聖チェチーリア音楽院で、ヴァイオリン、ヴィオラ、作曲を学ぶ。
1934年 ローマのアウグステオ管弦楽団(現・聖チェチーリア音楽院管弦楽団)に入団する。フルトヴェング ラー、デ・サーバタ、クレンペラー、ワルター、ストラヴィンスキー、E・クライバー、R・シュトラウスらの指揮で演奏。特にワルターに深い感銘を受ける。
1938年 聖チェチーリア音楽院の指揮科に再入学。ベルナルディーノ・モリナーリに師事。
1941年 聖チェチーリア音楽院指揮科の卒業コンクールで第1位を獲得。
1944年 反ファシストのため指名手配され、義理の叔父の家の地下室で隠れて生活をしていたが、この年に連合軍によってローマが開放される。その記念コンサートで、アウグステオ管弦楽団を指揮してデビュー。ローマ・イタリア放送交響楽団の第二指揮者となる。
1946年 ローマ・イタリア放送交響楽団の音楽監督となる。
1950年 ミラノ・イタリア放送交響楽団の音楽監督となる。ラジオでジュリーニの演奏を聴いて感銘を受けた大指揮者、トスカニーニから自宅へ招待される。極度に緊張していたジュリーニはほとんど話すことができなかったが、以後、トスカニーニと親交が続く。
1951年 オペラ・デビュー。コンサート形式ではフンパーディング作曲「ヘンゼルとグレーテル」を、舞台ではベルガモ音楽祭でヴェルディ作曲「椿姫」を指揮。「椿姫」のタイトル・ロールはテバルディであったが、2回目の上演では急病のテバルディに代わったマリア・カラスと共演。
1952年 ファリャ作曲「はかない人生」を指揮してミラノ・スカラ座にデビュー。スカラ座ではデ・サーバタの副指揮者を務める。
1953年 デ・サーバタの後任として、スカラ座の首席指揮者に就任(’56年まで)。EMIに、聖チェチーリア音楽院合唱団を指揮し、ケルビーニ作曲「レクイエム」を初録音。
1954年 フリッツ・ライナーの招きにより、シカゴ交響楽団に初めて客演。
1955年 シカゴ交響楽団を指揮してアメリカ・デビュー。エディンバラ音楽祭でヴェルディ作曲「ファルスタッフ」を指揮してイギリス・デビュー。
1956年 スカラ座の首席指揮者を辞す。以後はフリーで活動。ウィーン楽友協会へデビュー。
1958年 コヴェント・ガーデン王立歌劇場に登場。ヴィスコンティ演出の「ドン・カルロ(ヴェルディ作曲)」を指揮して絶賛を浴びる。以後、主にイギリスを中心にフリーの指揮者として活動し、フィルハーモニア管弦楽団やロンドン交響楽団等と録音を続ける。
1960年 イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団を率いて、ガリー・ベルティーニと共に初来日。
1963年 フリッツ・ライナーの没後、シカゴ交響楽団より音楽監督の就任を要請される。しかし、「三人の息子たちの教育のためと、長期間家族と離れて暮らすなど考えられない」として申し出を断る。
1967年 ベルリン芸術週間で、初めてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と組む。ジュリーニは当時、EMIの専属であったが、大ピアニストであるルービンシュタインの強い要望によりシューマン作曲のピアノ協奏曲をRCAに録音(オーケストラはシカゴ交響楽団)。
1968年 ローマで、モーツァルト作曲「フィガロの結婚」を指揮。以後、14年の間オペラから遠ざかる。
1969年 ゲオルク・ショルティの要請により、シカゴ交響楽団の首席客演指揮者に就任(’73年まで)。
1973年 ウィーン交響楽団の首席指揮者に就任(’76年まで)。
1975年 ウィーン交響楽団を率いて2度目の来日。
1976年 ウィーン交響楽団の首席指揮者を辞す。
1977年 ドイツ・グラモフォンと新たに契約。それまで政治的理由で排斥されていたスカラ座に復帰を果たす。復帰コンサート当夜は、スカラ座前の広場に、切符を入手できなかったファンが多数押し寄せ、特設スピーカーから流れる音に聴き入った。演奏曲目は、ベートーヴェン作曲「交響曲第9番」。
1978年 ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任(’84年まで)。契約に際しての条件は、「音楽以外の面にはタッチしなくてよい」ということであった。アシスタントとして、チョン・ミュンフンがいた。この年、ウィーン楽友協会の名誉会員に選出される。
1979年 ウィーンにおいて、名ピアニストのA.B.ミケランジェリと共演。ベートーヴェン作曲のピアノ協奏曲第1番・第3番・第5番「皇帝」の演奏をテレビ収録(オーケストラはウィーン交響楽団)する。同時にグラモフォンへライヴ録音。終演後、演奏上の理由により、以後の共演を互いに拒否。
1982年 ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団を率いて、3度目の来日。この年、ロサンゼルス・オペラでヴェルディ作曲「ファルスタッフ」を指揮して、久しぶりにオペラに復帰。
1984年 病に倒れた夫人の看護のため、ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督を辞任。以後、ヨーロッパの主要オーケストラへの客演を中心に活動。
1987年 ザルツブルク・イースター音楽祭へデビュー。演奏曲は、ブルックナー作曲「交響曲第8番」(オーケストラは、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)。また、この年、大ピアニストのホロヴィッツと組み、モーツァルト作曲「ピアノ協奏曲第23番」を録音(オーケストラはミラノ・スカラ座管弦楽団)。
1989年 ソニー・クラシカルと契約を結ぶ。
1990年 ウィーン市の名誉ゴールド・メダルと、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の名誉リングを授与される。
1991年 12月5日、ヴァチカンにおいて、モーツァルト200回忌のため「レクイエム」を演奏。法王ヨハネ・パウロ2世が臨席。
1994年 ロシアのサンクトペテルブルグ・フィルハーモニー管弦楽団へ客演。演奏曲はブラームス作曲「交響曲第2番・第4番」。団員から感激の声が寄せられる。
1995年 マルチェラ夫人、逝去。
1998年 10月、引退を表明。以後、若い音楽家たちの指導に当たる。
2005年 6月14日、逝去。享年91歳。
ハンドル名「la scala」様より、たいへん貴重な資料をいただきました。
2004年に、ミラノにあるマエストロ・ジュリーニのご自宅を訪ねられた際の様子をレポートして下さいました。また、当日撮影された写真も提供していただきました。
la scala様、本当にありがとうございました。
私は、昨年5月、20数年来の友人であるスカラ座のバイオリニストからの招きで、ミラノパルマを訪れました。その際の、マエストロに関する2つの「事件」についてご報告いたします。
5月6日、ファルスタッフの公演の前にスカラフィルのリハーサルを見ることが出来ました。場所は、Teatro Abanella。元は映画館だったところでスカラ座のオペラ・バレエ公演のオーケストラリハーサルにも使われているとのこと。友人とともに中に入ると、なんとスカラフィルからマエストロへの手紙が置いてありました。マエストロは現役時代スカラフィルに何度も客演し、主にベートーベン・シューベルト・ブラームス・ブルックナーなどのドイツ音楽を中心に演奏を行いました。5月9日に90歳の誕生日を迎えるので、スカラフィルから感謝の意を伝えるものでした。余白にはスカラフィルの楽員がサインをするスペースがとってあり、友人も早速サインしていました。マエストロは、引退して6年程経っておりマスコミに登場することも、ほとんどなくなっていますが、いまだに大きな尊敬を集めていることが伺われます。
5月7日、なんとそのマエストロに直接お会いすることが出来ました。実は、友人夫妻はマエストロのアシスタントをしているMarcoと懇意にしており、ミラノを訪れる前から「マエストロに会いたい」とお願いしておいたのです。ただ、本当に実現するとは半ば思っていませんでした。
約束の18時に、スカラ座から徒歩10分くらいのご自宅を訪ねました。ご自宅は裏通りにある、日本風に言えばマンションです。入り口には守衛さんがおり友人が面会の約束があることを告げると、内線で確認をとってくれて部屋まで案内してくれました。ブザーを押すと本人が戸口まで迎えに出てくれました。最後の来日公演以来22年ぶりにお会いできたマエストロは、年こそとってはいるものの足腰もしっかりしており大変お元気な様子です。部屋は、10畳ほどでナチュラルウッドのグランドピアノと机、それに応接セットが置かれていました。照明は机上と応接セットの上のスタンドのみでかなり暗い部屋です。
(管理人より: la scala様より送っていただいた写真は、このページの最後にあります)
まず、友人が私をマエストロに紹介してくれると、彼に日本から持参した扇子と「森伊蔵」をプレゼントしました。誕生日の2日前でしたが、90才のお祝いを言ってきました。実は、彼はウイスキーが大好きということを聞き同じ蒸留酒だし、と思いミラノ行きの機内で自分向けに買った「森伊蔵」をプレゼントしてきました。さて、その後は彼の質問の嵐でした。
まず、私の職業(私は、某県の教育委員会の外郭団体である財団法人に勤務しており、遺跡の調査・研究と言うことを生業にしております。)のことを聞かれ、「その職業は日本でも珍しいものじゃないのか?」とか「実際に遺跡で調査をしているのか?」などと聞かれました。その後は日本の音楽や芸術のことで、東京にあるプロのオーケストラの数や日本に西洋音楽が入ってどのくらい経つのか、音楽教育(どんな楽器を義務教育で教えるのか・プロを目指す人はどこで学ぶのか)や日本の若い演奏家達はどこでキャリアを積むのか、日本の伝統芸術(音楽に限らず、演劇や絵画についても)は今どのような扱いを受けているのか、などと非常に日本のことに興味があるご様子でした。
その中でまず、「なぜ日本は西洋音楽を受け入れてから100年ちょっとしか経っていないのにポピュラーもクラシックも西洋音楽が主体なんだ?」「東京に7つ8つもオーケストラがあるなんて信じられない。」「新国立劇場というオペラハウスに専属のオーケストラがないなんて考えられない。」などということを言われたのが印象に残りました。また私が大変驚いたのは、日本の伝統音楽に話が及んだときに、プッチーニの蝶々夫人に日本の旋律がいくつか使われている、と言いましたらそれについて全くご存じなかったことです。お江戸日本橋や君が代それにさくらさくらの旋律が使われている、と私が言っても全くわかりませんでした。友人も同様でした。東洋音楽というものは、西洋にはほとんど浸透していないのかなと感じました。
お会いしていたのは1時間弱でしたが、ほとんどが彼の質問に答えている時間でした。私が出来たのは、22年前のロサンゼルスフィルとの来日公演の感想を伝え、それが今日本の音楽ファンの中で半ば伝説化していること、それに写真を1枚撮らせて下さいということだけでした。しかし、齢90を迎えてなお音楽・芸術に対する興味・情熱・探求心は衰えることがない、ということを実感しました。
大変お元気そうに見えたマエストロですが、日本の伝統音楽に話が及んだ際に、それではCDをお送りしましょうか?と聞いたところ、「いや、遠慮する、ノーサンキューだ。音楽は聴かないようにしているんだ。」と言っておられました。確かに部屋の中にはCDもレコードもオーディオもなく、ピアノの上には本がたくさん積まれており、長いことその蓋は開けられていないことが伺われました。後で聞くと、心臓に持病があるため音楽を聴くと興奮してしまって体に良くないので聞かないようにしているし、ご家族からも止められているようです。こうして、マエストロ宅を後にしました。お伺いしたかったことは聞くことが出来ませんでしたが、本当に濃密な充実した時間を過ごすことが出来ました。
マ エ ス ト ロ が 眠 ら れ る 地
ハンドル名「la scala」様より、またまた貴重なレポートを送っていただきました。
マエストロの墓参記と、その際に撮影された写真です。
la scala 様、本当にありがとうございました。
マエストロ墓参記 la scala
2月2日 本日はBlzanoへ行く。ここは、マエストロが終の棲家とし、葬儀が行われ墓所があるところだ。スカラ座のオーケストラの友人が、詳細を事前に調べてくれてある。昨夜は、スカラ座でリゴレットを聴いて友人宅に着いたのは午前0時。食事をしながら行き方を教わっていたら寝たのは午前2時だった。
5:30に起床し友人宅を出て、最寄りの駅へ。6:10の列車が5分ほど遅れて到着。ミラノ中央駅で飲み物と軽食を買い込み車中へ。7:05分発のミュンヘン行きだがやはり5分遅れ。同じコンパートメントのミュンヘンへ帰るという、イタリアとドイツのハーフの青年に声をかけられる。日本人かと言われ、いろいろと話をした。彼もあまり英語が得意ではないらしいが、何とか意思は通じるものだ。彼から、Blzanoはオーストリア国境に近く、標高が高いので寒いぞと警告される。これは今朝友人にも言われたことだった。コートを着てこなかったことを少々後悔する。また、Blzanoはイタリア語とドイツ語を半々に使っていると教えられた。なるほど国境近くの町だ。
マエストロが亡くなった病院があるブレシアの手前くらいから、アルプスの山々がきれいに見えだした。列車はべローナには定刻に到着した。ここで列車の向きが入れ替わり、それまで東に進んでいたのが、北に向きを変えた。到着した日からずっとそうだが、毎日本当に快晴続きでしかも暖かい。東京よりずっと暖かく、これが今日コートを置いてきた原因でもある。列車はアルプスの方向に進んでゆく。段々に山が迫り、列車がスピードを落とし始めもうすぐBlzanoというところで線路際に墓地が見えた。しかし、ここがマエストロの墓地であるという確証はない。
定刻に列車はBlzanoに到着。駅前で、すぐにバスに乗り込む。どこで降りて良いかわからないので、友人に書いてもらったメモをバスの運転手に見せると、わかったと言う感じだった。発車してから20分ほどで、運転手が後ろを向いてここだ、と合図してくれた。やはり列車の中から見えたところだった。入口で薔薇の花を買い中へ。友人のメモとおりに正面のチャペルを目標に進む。メモ通りの場所にメモ通りの大きさ・色の墓標がある。墓標はチャペルへの道の隣の道に面しているため、良くは見えないがGiuliniの文字が目に入ってしまった。思わず涙がこみ上げるのを禁じ得ない。
(la scala様より送っていただいた写真は、このページの最後にあります)
回り込むと、そこにはマエストロのご両親と共にマエストロご夫妻が眠っていた。花を献げ、しばらく涙流れるままに手を合わせた。落ち着いてから墓標をよく見ると、墓標の文字はご両親と奥様のものは同じ字体・色でマエストロのものだけが若干違う。おそらくは奥様が亡くなられた際にマエストロが建立されたのだろう。そして、昨年亡くなったマエストロのものは追加で掘られたので、若干の違いがあるのだろうと推察した。つまり、マエストロご自身が永遠に眠る地をこの場所に決めた可能性がある。先にも書いたとおりここのBlzanoはイタリア語とドイツ語が通じる町である。実は列車のチケットもBlzano/Bozenと記してあるし、交通標識・看板皆2カ国語で書いてある。
マエストロはイタリア人でありながら、ベートーベン・ブラームス・ブルックナーなどのドイツ音楽を得意とし、スカラフィルからもそのことについて感謝もされている。ドイツ語とイタリア語が通じるこの町は、マエストロが永遠に眠る地としてこれ以上ふさわしいところはないであろう。マエストロがそこまで考えてここに定めたかは、おそらく永遠にわからないだろうが、マエストロのそのような気持ちが感じられてならない。
1時間ほどでマエストロの墓地を辞し、駅へ向かうバスに乗った。駅までは乗らずに途中で降りて、市内を散策がてら歩いて駅に向かった。途中で、マエストロの葬儀が行われたドゥオモの前を通った。小さいが、人出も多く活気のある町の様だ。駅でミラノまでの乗車券とベローナまでのインターシティの座席券を購入してから、時間までの暇つぶしと昼食をかねて駅近くのカフェに行った。ピザとビールを頼んだが、ここでも言葉はイタリア語とドイツ語が入り交じっている。列車の時刻が近づいたので、駅へ向かった。列車はここでも定刻に来た。2回のイタリア訪問で鉄道では遅れらしい遅れは、今回のパルマからの帰りの1回だけしか経験していない。長距離列車が非常に多い中で、これはかなり優秀だと思った。南へ向かう列車の中で、マエストロの墓所の前を通過するときに再び手を合わせた。また必ず参ります。
(後日譚ではありますが、帰国後チュン・ミュンフン指揮の東フィルの演奏会に行きました。終演後サントリーホールの楽屋で、チュンに今月マエストロ・ジュリーニのお墓参りをしてきました。と言うと、本当に驚かれた顔をしていましたので「写真があるけどご覧になりますか」と聞いたところ「是非に」と言うことでしたので、お見せしました。しばらく無言で、じっと見つめて墓石に掘られた字を追っていられました。そして、強く手を握られ握手され何度もお礼を言われました。いまだにチュンの心の中にはマエストロがいらっしゃるのだな、ということを実感しました。)