ヘルベルト・フォン・カラヤン
彼は最も洗練され、なおかつ多彩な指揮者の一人だ。
「ニューヨーク・タイムズ」の記事より
信仰の対象にすべき人物があるとしたら、カルロ・マリア・ジュリーニはそれに値する一人である。
ウォルター・レッグ
(スカラ座でのリハーサルを聴いて)背が高く、気品ある若々しい指揮者が、オーケストラからふだんよりも遥かにいい響きを引き出し、奏者たちの注意をそらさせなかった。私は、カラヤンにすぐ来るよう電話をかけた。指揮者を一人見つけたぞ!と。数分後に駆けつけた彼は、私の隣に座り、まるで山猫のように指揮ぶりを眺めていた。リハーサルが終わると、私たちは楽屋に行ってジュリーニを紹介してもらい、彼におめでとうを言い、必要ならいつでも力になると約束した。
ロバート・チェスターマン
ウォルター・レッグは、多くの音楽家の性格的な特徴について、ゴシップ記事にでもなりそうな口調で話した。その際に、無傷の状態で話題に上ってきた唯一の人物が、カルロ・マリア・ジュリーニであった。「彼は聖者なんだよ」とレッグは言った。
チョン・ミュンフン
指揮台に上がられる時、ジュリーニ先生はオーケストラの一員としてふるまわれます。皆に一人の仲間として接せられ、優しく静かに指示を出され、また考えるヒントになる助言を下さいます。オーケストラのメンバーとの間に、共同意識・友情・協力を誘う雰囲気を作り出してしまわれます。ジュリーニ先生は非常に言葉少ない方です。それでいて、お感じになることも、お考えになることも、指示も、まるで芳香でも漂わすかのように自然に発散なさいます。先生の行動や態度は、私生活でも仕事でも模範的で、クリスタルのように純粋で無垢で透明で、知り合った人の心にいやでも「自分の生き方は間違っているのではないか」と、そんな反省の気持ちを起こさせずにはおかないほどです。きっと誰もが、あの方のそばにいて影響されないではいられないと思います。
ジュリーニ先生は他に例のない存在です。彼の様になること、あるいは彼の跡を継ぐことは、余人には不可能なことです。あんなに音楽に熱中して、他の野心を持たない、高貴で謙虚な指揮者を私は他に知りません。
私が初めてマエストロ・ジュリーニと会ったのは、今から27年も前のことです。25歳の私が、ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団で幸運にもマエストロのアシスタントに抜擢された時でした。
マエストロの仕事への取り組み方というのは、マエストロ自身が抱いている作曲家たちと演奏者への偉大な愛と尊敬に基づいた、非常にシンプルで自然なものでありました。マエストロは、作曲家たちと演奏者への愛と尊敬だけを考えて演奏し、それらの間に余計な事が介在することを許しませんでした
。
私の考えでは、マエストロは純粋な表現を最も重視した指揮者でした。マエストロが舞台に上がりオーケストラの前に立った時、それまでの長い音楽活動で深く心の中に取り入れ熟成させてきたことを彼らに伝え、分かち合うことに常に成功していました。私にとって、マエストロ・ジュリーニという手本が決定的となったのは、数年間の思索の後、私がオーケストラの指揮に自分自身を捧げようと決心した時で、それ以来マエストロは、私の音楽家としての人生の中でいつも模範であり続けました。
マエストロ・ジュリーニの人間的美点は、音楽家としての偉大さを上回っていました。その魂の気高さ、謙虚さ、寛大さは、彼を知る幸運に恵まれた人々の魂に対し、常に深く訴えるものがありました。音楽家としてマエストロは、音楽に奉仕するため、そして音楽を通して人類に奉仕するための「聖職者」のイメージに限りなく近い人物であると私はいつも思っていました。
私は、自分の生徒たちに、マエストロ・ジュリーニを手本として見習うようしばしば話し、彼らを激励したものでした。マエストロ・ジュリーニは間違いなく私が人生の中で最も敬服する人間そして音楽家であり、その芸術家としての証は、最も高貴で最も純粋な手本として、将来の世代の音楽家たちのために存続し続けることでしょう。
ジェイムズ・ジョリー
ジュリーニは薄っぺらな派手やかさとは無縁の人間だ。指揮台の上でも、指揮台を降りても紳士であり、コンサートでもスタジオでも類稀な水準を崩さず、しかもその全てを決して声高になることなく実現するのだ。フィルハーモニア管の時代の彼の演奏は啓発的だが、残念なことにカタログに残された録音の数はあまりにも少ない。個性と理解力の深さという点で、ジュリーニの演奏はどれも見過ごしにはできない。今、彼のような音楽の縦糸と横糸に対する感覚をほんのひとかけらでも表現できる指揮者はほとんどいないのだから。
ウイリアム・マロック
ジュリーニを見ていると、半分、催眠状態になったような気持ちになるのです。彼は、時代の多くの苦しみを背負っているようなのです。苦しみにあえぎながら、彼自身の内面から音楽を絞り出しているようなのです。彼の指揮は一様に、単調とも言えるほどに真面目なものです。わざとらしさなどは全くないのですが、彼のアプローチの仕方は劇的なものです。
ノーマン・レブレヒト
音楽を奏でるという特権に金が支払われることが彼を悩ませた。それは、彼の聖人のような性格によるものだ。彼は終生の結婚を楽しみ、友人に対する誠実さは汚れたことがなかった。ジュリーニは、一人の敵も作らずに音楽生活を続けた。いや、音楽史に彼の足跡を残しつつある。彼は、老獪な政治家の庇護を受けることも避けてきた。
マーチン・バーンヘイマー
私たちは皆、ジュリーニの少し度が過ぎた謙虚さをよく分かっていて、彼の真価を理解しています。残念ながら、ジュリーニはそういう自分を好きでないくせに、それを変えようともしないのです。
ロバート・マーシュ
ジュリーニは、プライバシーをとても大切にしています。おそらく、あまりにも知れ渡ってしまうと、高潔さを失う危険があると信じているのでしょう。彼は、どちらかと言うと別世界の人間で、音楽業界の煩わしい側面には無関心の態度を保つように努めているのです。
レンツォ・アッレーグリ
アメリカに演奏旅行をして帰国した、ある若い指揮者が、私に言ったことがある。「誰よりも、マエストロ・ジュリーニこそが最も愛され尊敬されている音楽家です。アメリカのどこへ行っても、私がイタリア人だと分かったとたんに必ず言われました。じゃあ、ジュリーニをご存知でしょうって。マエストロ・ジュリーニと同国人というだけで、私まで丁重な扱いを受けました。」と。
世界中にいる友人の音楽家たちや数々の劇場、レコード会社の関係者たちが一緒になって、この誰からも敬愛されているイタリアの指揮者の誕生日を祝って盛大な催しをしたいと計画を立てていた。ところが、ジュリーニはそれを望まなかった。「私生活は音楽の仕事と何の関係もないので」と言って皆を驚かせた。「申し訳ないけれども、80回目とはいえ、誕生日は家で家族と祝いたいし、またそれで十分なのです。」と。そしてその通りになった。誰もマエストロの気を変えさせることはできなかった。信じ難い話に思えるが、本当なのである。マエストロは、妻と3人の息子夫妻と孫たちの前で、他の誰にも邪魔されることなく、幸せに微笑みながら、夫として・父として・祖父としての愛情に満ちて、昔からある古風な誕生祝いのケーキの上のロウソクを吹くのである。思えば、こうした態度こそ、マエストロ・ジュリーニの人生のあり方に最も自然な選択なのである。彼は常にこうした生き方であったし、また彼がこうした生き方を終始変えなかったことが、我々の称賛の的なのである。
ハロルド・ナッシュ
マエストロ・ジュリーニは素晴らしかった。イタリア風の伝統的な響き、きれいだけれどコントラストのある響きを出していました。時には幅広く、リリックで美しくて。マエストロは、ある音色から別の音色へとぱっと変えます。鮮明なテクニックで、他の指揮者では考えられない、驚くべき仕掛けを覚えています。当時は英語が苦手だったのか、あまり言葉で話さないで、そのかわりフレーズをよく歌ってみせていましたね。そして、指揮棒や視線でアイディアを表現していたのです。
アドリアーノ・バッスィ
ジュリーニは、それが信条であるかのように思慮深く、慎重にふるまっている。この特性は指揮にも反映していて、総譜を明確かつ建設的に解釈し、なるべく多くの時間をかけて、ほつれや演奏上の問題を解いていく。演奏を聴いてみると、テンポやリズム、オーケストラのきらめきなどから遠く離れた次元での音楽的な対話への欲求がうかがわれる。唯一、気にかけていることは演奏の明快さ、つまり一つ一つの楽器が持つ役割と、なぜその楽器が音を出すのかという明確な理由の発見である。ジュリーニは、音楽をほとんど精神的に生きており、解釈へ真っ向から取り組み、慌しく変化を続ける世界に飲み込まれまいとしている。ジュリーニの中では、全てが深い沈思黙考から、音楽を見つめる冷静な目が生まれてくる。一目見ただけで航海を始めるようなことはしない。カリスマ性を備えてはいるが、出たがり屋ではなく、むしろ内面に神秘性を秘めている。抑制されてはいても、身振りの正確さやアイディアの斬新さを見せ付けられたオーケストラの団員たちは、その魅力の虜になった。ジュリーニは、テクニックだけを追求していたのではなく、むしろ、見せることを超越して音楽的な言葉がやりとりされ、その呼応が盛り上がっていくのをただ一つの目標としていた。聴衆の満足は得られないのを承知の上で、大袈裟な身振りやジャンプといったパフォーマンスを行わなかった。情感の限界まで響きを高めながら、その味わいを聴衆の目ではなく耳に訴えようとしていたのである。
アルトゥーロ・トスカニーニ
(初対面の挨拶)ラジオで演奏を聴きましたよ。あなたのことは知らないが、演奏のテンポは正しかった。
ウラディミール・ホロヴィッツ
ジュリーニと私は、モーツァルトに関しては異なっています。彼はゆったりしたテンポを好むのです。でも彼は紳士で、気品のある顔をした人ですよ。
クラウディオ・アラウ
モーツァルトの協奏曲を弾く時に、ピアニストは演奏以外に二つの困難に直面するんだ。まず、音楽的に同じ言葉を話す指揮者を探さなくてはならない。それから、リハーサルの時間を確保しなくてはならない。だから、協奏曲を弾くのはやめにしたんだ。もちろん、ジュリーニやクライバーがいるけれどもね。
エリザベート・シュワルツコップ
彼がミサ曲を指揮していたときの、苦悩に満ちた表情が似ていたので、「聖セバスチャン」と呼んでいます。
ブリギッテ・ファスベンダー
マエストロ・ジュリーニは、歌い手たちを本当に理解している数少ない指揮者の一人です。
クラウディオ・アバド
大音楽家として、また、格別の人間として畏敬しています。私がミラノ音楽院時代に在籍していた当時、マエストロ・ジュリーニは私たちの学生オーケストラを指導して下さいました。彼は私たち学生を自宅に招いて、さらに貴重なものを与えて下さいました。注意と助言です。私にとっては、心の師であり父でもありました。
リッカルド・ムーティ
マエストロ・ジュリーニは、深い精神性をもち、音楽に対し稀にみるほど献身的な人でした。また、一緒に仕事をした全ての人たちから非常に愛され、尊敬された音楽家でした。マエストロ・ジュリーニはオーケストラ指揮者の歴史上、そして、20世紀の演奏家の中で最高位にある人だと思います。トスカニーニやデ・サバタの高弟に相応しく、イタリア音楽のレパートリーで模範となるほど重要だっただけでなく、彼の精神や天性の雄弁さを知性をもって十分に表現できた、ロマン派のレパートリーにおいても重要な人でした。
サー・サイモン・ラトル
必要とあらば、並の現代音楽指揮者が真っ青になるほど精確なビートを振れる人でしたよ。
マエストロ・ジュリーニが振った、ブラームスの第4交響曲には、「正当性」とでも言うべきものがあります。他の演奏で聴くと、自然に行うべき呼吸の間が無いのです。
ジュゼッペ・シノーポリ
(ジュリーニ引退に際して)マエストロ・ジュリーニのこれまでの人生と音楽は、”他の人たちに捧げる”ことであった。彼に、自己顕示欲や自己中心主義といったものを見たことがない。彼はもはや、自分が主役であるのを望まず、若い音楽家たちとともにオーケストラを創り上げていきたく思っている。これはまさに、我々イタリア人に欠けている点である。彼ほどのレベルで、これだけ豊富な経験を若い人たちに与えるということは、演奏会の指揮台に立つよりも、もっと重要な価値があるかもしれない。
コード・ガーベン
ジュリーニは、芸術に対する人としての向き合い方を、実際的な技術の問題よりも優先させることができた数少ない人物の一人である。ミケランジェリはモーツァルトのピアノ協奏曲では限られた数曲しか弾かなかったが、その際のお気に入りの指揮者の一人がジュリーニであった。
三浦淳史
ルドルフ・ビングのメト回想録によると、ビングがいくら辞を低くして懇願しても、小さな子がいるので家を空けられないという、理由にもならない理由でメト出演を断っている。メトから声がかかると、ウィーン国立歌劇場をほったらかしにしても馳せ参ずるベームのような巨匠もいるのに、メトの招きを断りぬいた指揮者といったらジュリーニぐらいなものだろう。まだボストン響の音楽監督に小澤征爾が赴任する前のことだが、同オケに客演したジュリーニは地元の猛烈な音楽評論家マイケル・スタインバーグから酷評を浴びた。その反応がおもしろいのだが、楽団員が一致してジュリーニを支持し、スタインバーグに対して何らかの処置を取るよう楽団マネージャーに申し入れをしたのだ。
アラン・リッチ
音楽の背後にある、創作上の闘争の跡をジュリーニは辿る。ベートーヴェンの第5交響曲を指揮する際には、自筆譜のコピーの精密な研究に力を注いだ。ベートーヴェンが書き記しているものはもちろん、変更したもの・抹消したものからも多くのことを学んだ。ロサンゼルス・フィルハーモニーとの第5のリハーサルで、ジュリーニは第1ヴァイオリンだけにある16分休符を指摘し、その部分をやり直した。違いは驚くべきものだった。譜面には活気が溢れ、火花が散った。
小石忠男
ジュリーニは、形骸化した意味の無い伝統的様式に寄りかかっているわけではない。トスカニーニと同じく、彼はあくまでもリアルであり、楽譜そのものを直視している。だからこそ、年輪を増すにしたがってこの指揮者は音楽的な統一への道を歩むことができたのである。
金子建志
長身のせいもあるが、ジュリーニは腕を肩より上げずに低いポジションで指揮するのが特徴だ。現役の指揮者ではサイモン・ラトルが影響を受けており、似たようなポジションで指揮をする。ただしラトルは上体をかなり激しく使い指揮台上を動き回るが、ジュリーニは脚を少し開いた安定した基本姿勢を崩すことなく、悠然と振る。オーケストラ側から見ると明らかなのは、ジュリーニの指揮が、斎藤メソッドで言う「先入」を基本に振っていることだ。これは、オペラを中心に振っている指揮者、もしくは歌劇場出身の指揮者に多く、拍子のポイントになる打点を鋭角的に叩くように振って縦線を強調する「叩き」よりも、ある程度自然な流れに任せる音楽作りに適している。奏者の自発的なカンタービレや、歌手の自由な呼吸を優先させることが易しいため、旋律を歌わせるのに適した指揮法と言うことができよう。一般的な表現なら、懐の深い指揮ぶりとでも言うべきだろうか。
宇野功芳
ジュリーニは年輪を加えるにしたがって、特にドイツ・ロマン派に重厚を極めた雄大な表現を示していった。遅いテンポで内声を充実させ、じっくりと音楽を進めてゆく。彫りの深い緻密さは抜群で、上滑りするところは一つもない。まさに、一時代前のドイツの大指揮者という風格が漂っているのである。ジュリーニの初レコーディングは、デビューしてから10年後と遅かった。理由の一つとしては、レパートリーが極端に少なかったことが挙げられよう。といっても、振れないのではなく、振らないのである。自分が本当に納得し、愛し、理解する曲以外は指揮しない。メトロポリタン歌劇場の招待を断りぬいたのは有名な話だが、こんな指揮者はジュリーニただ一人であろう。
石井宏
小型で、細部の仕上げに拘泥し過ぎ、音楽の本質に迫ることを忘れるのがとかく現代風の指揮者の通弊だとすれば、ジュリーニはそれらを見下ろす悠容とした大山、抜きん出た秀峰である。彼はどんなアレグロの時間においても決して走り出さない。音楽においては、速度に反比例して音符の質量が減っていくのを彼は知っているのである。ゆっくりと進むとき、音符の周辺にはずっしりと重い空間ができ、音楽全体の重量が増し、思考の容量が増える。前代の巨人たちが創造した広大な世界は、そうした意味でジュリーニに継がれていると言っていいだろう。
富永壮彦
ジュリーニのテンポを、遅めと言うだけでは充分ではない。あのテンポには、この音楽の運びはこうだと信じ、共に歩んでいる確固たる足取りがある。
山田治生
ジュリーニのように歳を重ねられたらどんなにいいかと思う。自分の様々な体験や思い出が音楽に昇華され、美しく、深く、哀しく響く。人生に重みや高貴さがあるから、遅いテンポにも説得力があり納得させられる。
吉井亜彦
彼は、言葉の最良の意味でジェントルマンであった。見事な仕立てあがりのスーツに身をかため、ネクタイをはじめ身の回りのものは全てよく吟味されていてピタリと決まっており、まさに一分の隙も無い。黙って立っているだけで周囲を圧するような威厳を漂わせている。それでいて、物腰はたいそう柔らかで、相手の話をよく聞き自分の話をするときは極めて謙虚だ。驕り高ぶるような言動は、彼の場合は微塵も無い。ヨーロッパのジェントルマンというか知識人のマナーの一端を垣間見たように思った。このような個性の持ち主があの悪評高き音楽界の頂点にいるのかと、僕は心底驚いた。
ジュリーニの音楽には自我の偏りが少ない分、例えば喜びや悲哀、憤りといったものがあまりなくて、無機質に平均化されているのかというと、それは全く違う。まるでそうではない。ジュリーニの音楽に一度でも接してみれば、数々の人間的情熱の息づかいが極めて豊かであることなど、すぐにでも明らかになる。人為的にどこか一方だけに偏ることなく、一つひとつが整えられ、全体の中でバランスをとっている。その上で、大きく、自然な流れとして全てが展開していく。あたかも、大いなる時間の流れを、深い息づかいの中で描き出していくように。
礒山 雅
カラヤンがあるインタビューで、ジュリーニを「自分の理想的な後継者である」と語り、ジュリーニがその意志は無いと否定した一幕をご記憶の方も多いだろう。私はかつて、ベルリン市内のイタリア料理店でジュリーニを見かけて、失礼とは思いながらもサインを乞うたことがある。ジュリーニはいやな顔もせず、むしろ心から嬉しそうに応じてくれたが、私は、コンサートの印象とはすこぶる異なる、イタリア人気質丸出しの陽気さと愛想のよさにびっくりし、感銘を受けたものである。まさに外柔内剛。ジュリーニのこうした人柄と音楽に、ベルリン・フィルハーモニーのメンバーは心服しきっている。
ヘルマン・クレッバース
あの人にどれだけ多くのことを教えられたことか・・・!
岩田恵子
(ジュリーニの指揮で演奏することについて質問され、両眼の下に人差し指で涙の筋を描きながら)
コレですよ、コレ。
ウィーン・フィルのメンバー(詳細不明)
マエストロ・ジュリーニは細部を詰めるというのではなく、自身のスタイルと我々の接点を見つけ、それを音楽的に浸透させていく方針を採っている。
黒田恭一
紳士的という言葉は、その本来の意味を無視して、あまりにも頻繁に用いられたために、もともとその言葉が伝えるべき内容を伝えられなくなっている。紳士、あるいは紳士的という言葉は、カルロ・マリア・ジュリーニのような人物のためにあるのだということが、ジュリーニに会ってみて分かった。しかもジュリーニは、有徳の人でもあった。ジュリーニは、確固たる信念を胸に秘めながら、しかしそれをやみくもに主張する幼さから隔たったところにあって、いつでも深い洞察に満ちた演奏を聴かせてくれる。
ジュリーニは、音楽に対してのみならず、聴き手に対しても礼節の人だった。ジュリーニの音楽にある「徳」は、おのずとそこからにじみ出たものと思われる。ジュリーニの演奏を技術的な良し悪しだけでいったら、おそらく、その演奏にある最も美しいもの、最も力強いものを感じ取り損なう。ジュリーニの演奏を聴く方法は一つしかない。音楽を、ジュリーニに負けないほど深く愛して、真摯に、そして謙虚に耳をすますことである。そのようにして聴いたとき、僕たちは、ジュリーニの演奏だけにある温かくて確固としたメッセージを感じ取り、頭を垂れることになる。
許 光俊
私が知っている最も「カッコイイ指揮者」は、派手に動き回る誰よりも、専制的な匂いのする誰よりも、スターの輝きがある誰よりも、著しく穏やかで決して攻撃的ではないジュリーニである。ジュリーニが60歳~70歳あたりで到達した音楽は、オトナの音楽として超一流だった。決して汚い音は出さない。興奮して暴れたりしない。スピードの心地よさなど求めない。ナマの感情を爆発させたりしない。何もかもめいっぱい、これでもかと表現するのではなく、抑制するというのがジュリーニの美学なのである。実は深い悲しみがあるのだが、悲しみが無いかのように振舞うのである。達観したような静けさがある。
人並みをはるかに上回る才能があり、成功にも恵まれた人間が、あえて様々な感情を表に出さず、極めて品よく振舞っている姿に賛嘆の念を覚える。露骨で生な表現ばかりが喜ばれ、瞬間的な芸が歓迎される土壌では、ジュリーニの酸いも甘いも噛み分けた大人の音楽、誰でも聴けば分かるわけではなく、様々な演奏を知っている人間が聴いて感心できる音楽は、受け入れられないのである。
背が高く、ほっそりとしたジュリーニは、およそ指揮者らしい権力臭を感じさせない。彼は、他の指揮者たちのように、練習によってオーケストラを自分の方向に力ずくで持ってきたりはしない。それなのに、何故か分からないが、オーケストラがジュリーニのために全力を尽くそうという気になってしまうのである。だから、残念ながら演奏には当たり外れが多い。ダメな時は目も当てられないくらいだが、いい時には本当に聴いていて身が清められるような神々しい音楽が奏でられる。ジュリーニの音楽は、高級感、育ちのよさ、高貴な気配を漂わせる。たっぷりとメロディーを歌い上げる以外に、とりたてて特徴的な部分は少ない。だが、全体が、えもいえぬ雰囲気に満たされているのだ。他の誰もできないような独特で偉大な音楽であった。
木下健一
毎回パリ管弦楽団が至福とも呼べるような境地に達するのが、ジュリーニを指揮者に迎える時である。合唱が入る時など、アマチュア団員たちが、半年も前から彼の来演を心待ちにしているし、マエストロも気軽に合唱団員の家に招かれ食事を共にしたり、ジュリーニがロンドンのフィルハーモニア管弦楽団でベートーヴェンの第9を振った時など、「帰って来るお金がなくなったら、向こうでバイトしてくる」とパリ管合唱団員数名が自腹を切ってロンドンに渡り、オーディションを受けてあちらの合唱団に混じって歌ったりしたこともあった。彼らはジュリーニの音楽と人柄にぞっこん惚れ込んでいるのだ。こうなるとパリの楽団員たちは驚くほど頑張る。パリでこういうことが起こり得るのはジュリーニと小澤征爾の時に限られると言ってよい。ジュリーニにあって決定的なことは、全ての虚飾を拭い去って澄み切った心境が、そのまま音楽に反映していることだ。
デリック・クック
ジュリーニには、ブルックナーの美徳の全てがある。気品、雄大さ、リズムのパンチ、感傷抜きの雄弁さ、そしてとりわけあの名状し難い精神性。
グレアム・ケイ
EMIにおける彼の指導者ともいうべきウォルター・レッグに対してさえ、ジュリーニは自分を貫いていました。レッグの説得に屈して心ならずも引き受けた、チャイコフスキーの交響曲第5番の録音では、スタジオに入って15分後には指揮棒を置き、これ以上続けることはできないことを宣言。レッグはやむなくオーケストラを解散させ、ジュリーニと二人で散歩に出かけ、音楽以外のことをいろいろと話したそうです。
吉田秀和
一口で言って、ジュリーニは、フルトヴェングラーとカラヤンの間を繋ぐところにいるという点で、他に似た人の考えられないような存在である。と同時に、この人は、民主主義全盛の時代では、どうやら時代遅れになってしまった「精神の貴族」の系譜に属する芸術家の一人らしい。
広渡 勲
亡くなったカルロス・クライバーは、同業者の悪口を言うこともあったが、ポジティブに評価していたのがカルロ・マリア・ジュリーニとヘルベルト・フォン・カラヤンだった。
安永 徹
1984年、ベルリン芸術週間で、カルロ・マリア・ジュリーニの指揮によりブルックナーの交響曲第8番を演奏した時のことである。私は、始まってから10分ほどで、オーケストラの感じがいつもと違うことに気づいた。私には普段、弾きながら他の団員と目を合わせる習慣がある。コンサートマスターとして彼らの心を読み取り、より良い演奏にしたいからだ。ところがその時は、返ってくる団員たちの目の光がいつもと違っていた。弾きながら自ら感激してしまうと、弾く時の動きに余分なものがなくなり、耳と身体に全感覚が集中する。そして知らないうちに、「こう演奏すべきだ」という啓示を受け、そこに迷いもなく導かれていく。その時は団員全員が全く同じ目の輝きを持っていたように思う。皆、弾きながらの感激を味わっていたのかもしれない。
プラシド・ドミンゴ
ジュリーニのような、気品と強靭さを併せ持つ指揮者は他に類を見ない。彼の音楽作りは、極めて洗練されたものだった。共演する者は、常に彼のリーダーシップと、全体を見失わないコンセプトに気付かされる。テンポは時に遅いと感じられることがあるが、実はそれは意味のあることで、結果的にとても自然であることが分かる。歌手をよく理解しているジュリーニの指揮のもとでは、非常に歌いやすい。
レクイエムの「怒りの日」においては、審判者である父なる神の化身のようにも見えた。ジュリーニは、大げさな身振りを用いることなく、聴く者の耳を音楽に惹きつけた。善良で紳士的な彼が、「怒りの日」で感じさせるあのようなパワーは、ショッキングと言ってもよいぐらいだった。
井上道義
僕はロンドンにずっと住んでたので、その頃活躍してた指揮者の練習を毎日、本当にたくさん見てた。テンシュテット、ベーム、ジュリーニ、クライバー、カラヤン、アバド、ヨッフム。僕のちょっと年上で、同じコンクールの1位を取ってたインバル、あの頃売り出してたプレヴィン、ワーグナーがうまいピアニストのバレンボイム・・・・・。それでその人たちに、休憩の時に質問するの。「あなたはなぜ指揮者をやってるんですか、何が面白いんですか」って。そうすると、答えられる奴と答えられない奴がいるんだよ。なんだ、そうか、みんなそんなにクリアーじゃないんだ、いろんな理由で指揮者やってるんだなって。でも、カルロ・マリア・ジュリーニに、「君ね、人生は短いんだから、そんなに迷ってたら死んじゃうよ。何をやったって1回の人生はその人の人生なんだから、迷う必要ないよ。」と言われたの。その言葉がすごく僕の背中を押してくれた。
クラウス・ウムバッハ
カルロ・マリア・ジュリーニ。この、あらゆる指揮者の中で最も高貴で、通常は下劣な音楽産業でさえも既に聖人の列に加えてしまった指揮者。
ギリアン・イーストウッド
1963年に、私はフィルハーモニア管弦楽団のヴァイオリン奏者として、マエストロ・ジュリーニの指揮でヴェルディの「レクイエム」を演奏しました。あの時は、終演後も拍手が30分も鳴り止まず、私は一晩中興奮して眠れませんでした。特に「怒りの日」でのトランペットを思い出すと、今でも鳥肌が立ちます。
ジョン・ウォレース
ジュリーニは、テクニックは二の次とする古い世代の指揮者グループに属していると思います。彼はテクニックではなく、私たちとの深く激しい感情のやりとりを通じて演奏を完成させるのです。彼は率直で、激しく、オーケストラから素晴らしく洗練されたサウンドを引き出します。時としてアンサンブルを犠牲にしてでも。そして彼の素晴らしい演奏は感動を呼び覚ますのです。
マーティン・ジョーンズ
ジュリーニの指揮のもとだと、正確極まる演奏は難しいのですが、美しく弾くのは難しくないのです。
マルチェラ・ジュリーニ(ジュリーニ夫人)
彼のような芸術家と結婚した者の責任を、少しずつ自覚するようになりました。彼は、精神的なものをたくさん下さる素晴らしく献身的な夫であり、とてもとても優しい父親でもあります。私が丸々1年病気をした時には、信じられないほど協力的でした。だからこそ彼に尽くしているわけで、しんどいあの頃の生活に対処できたのです。例えば、三人の息子がまだ小さかった頃は、母親の役割と妻の役割が対立するので、長い旅行(演奏旅行)はしないようにお願いしました。信じていただけないかもしれませんが、彼はあまり家を空けなくても済むよう、意図的にキャリアの進展を遅らせてくれたのです。
マッシモ・ボジアンキーノ
ジュリーニは、若い頃から並外れて超俗的であり、純潔な人間でした。
ピーター・ダイアモンド
私とジュリーニは、2時間ほども話をしたでしょうか。まだ彼の指揮する演奏を聴く以前でしたが、話は説明できないほどに弾みました。オランダに帰って音楽祭の仕事に取り掛かった私は、「ジュリーニという男を来年の音楽祭に招こう」と言いました。関係者は皆、私に尋ねました。「ジュリーニさんて何者ですか?何をしている人ですか?あなたは彼の何を聴いたのですか?」とね。私が、「何も知らないさ。でも、会って話をしたんだ。」と答えると、連中は「それだけでは指揮者と契約する理由にはならないでしょう。」と言うので、私は「それでもいいんだ!」と言ってやりましたよ。彼は1952年に初登場すると、私が辞める1965年まで毎年出演してくれました。それから、私がエディンバラ音楽祭に携わるようになった1966年からは、私が引退する1978年まで毎シーズン来てくれました。私がこれほど賞賛し、尊敬し、大事に思う人は、世界でもごくごく少数です。
ルキーノ・ヴィスコンティ
(もう一度オペラの演出をしてみたいかと質問されて)
ええ。やってみたいですね。ただし、ジュリーニとならです。
フランコ・ゼッフィレッリ
ジュリーニは、美に対して実に敏感です。彼の仕事は真面目で、歌手たちの扱いがたいへん巧みであり、求められない限り舞台の演出に口を出しません。口を出す時は、いかなる要求に対しても絶妙なサウンドの答えを返してきます。演奏中の彼は、まさに情熱的で、公演を楽しんでいるようにさえ見受けられます。そして、ほとんどと言っていいほど怒りません。でも、彼が一度怒ったら、もう戦争です!彼に抗う術はありません。多くを語らないのですが、全てが正しいのです!この硬質で冷静な怒りは、公私の両面で見たことがあります。しかし、ほとんど常に親切で、礼儀正しく、昔の言葉の意味合いでの「紳士」であり、悪い言葉を決して用いません。ただ、一度だけ、歌手に向かって「馬鹿者」と言ったのを憶えていますが、後で舞台に戻って皆の前で相手に謝罪しました。それでも考えは変えず、その人物が愚かであると思ってはいましたが。しかし、そういう言葉は二度と口にすまいと決意していたのですよ。また、彼には、生来持っている威厳のようなものがあります。
マイケル・ナット
ジュリーニは、聴衆のためではなく、音楽のために指揮をしています。私は、25年も演奏してきた曲でさえ、彼の指揮で演奏すると新しい音が聴こえるのです。
ジェレミー・ホワイト
ジュリーニのことが好き、としか言いようがありません。彼の指揮のテクニックですか?よく憶えていません。憶えているのは、彼の目です。全ての動作に緊張感が込められていましたが、中でもあの目!これが彼の指揮の流儀なのです。
ロナルド・レナード
ジュリーニは大いにインスピレーションを与えてくれます。彼は、まるで信仰のように音楽と向き合うのです。感覚を研ぎ澄ましておくと、特別には何もしなくてもリハーサルについていくことができ、何も言われなくても演奏でき、彼の音楽に包まれているような気分になるのです。
ヤーノシュ・シュタルケル
私は、まだヨーロッパにいた間に、真に偉大な音楽家、カルロ・マリア・ジュリーニの指揮でハイドンのチェロ協奏曲を録音した。その後、シカゴ響のシーズンが開幕した時、フリッツ・ライナーが私に言った。「私は、ジュリーニという若い男と契約して二週間指揮してもらうことになった。彼は二つのプログラムを送ってよこしたが、その中には私がもう予定に組んでいる作品が入っていた。ところが彼は、その作品を差し替えることを拒んだのだ。こんな話を聞いたことがあるだろうか?」 私は、ジュリーニが非常に良心的な音楽家だという意味のことを口ごもりながら言った。私は、彼が優れた指揮者であり、自分が熟知している作品でなければ指揮しないのだと感じていた。その後、ジュリーニは、シカゴ響にもそれ以外のオーケストラにも愛される、欠かすことのできない指揮者となった。
ギドン・クレーメル
多くはないが、指示通りに従いたくなる指揮者もいる。カルロ・マリア・ジュリーニもその一人。指示に従うのが苦痛でないどころか、楽しい。我々は、折にふれ共演することがあった。中には彼にとって目新しい曲もあった。こういう出会いの全てを通して、私は彼から作品の本質を奥深く探り求めることを学んだ(特にシューマンで)。ジュリーニは決して表面的な指揮をしなかった。彼は、安易なものとか規定通りにすぎないもの、事務的なものとは無縁だった。ジュリーニのゆっくりなテンポは(時に、ゆっくり過ぎて嫌がられたりもしたが)、彼の感知した適切な鼓動に基づいていた。ジュリーニのシューマンやブラームスには、現代の機能的かつ表面的な世界では見失われがちなテンポがある。感性の世界を味わう、抵抗の知覚や和声の転換。今日、こういうものにたっぷりと時間をかける者がいるだろうか?内面的な責任感を持って、必要不可欠な張り詰めた気持ちにのみ従う指揮者は極めて少ない。ゆっくりしたテンポのジュリーニは、フルトヴェングラーの精神に親近しているのではなかろうか。
彼は、自分のためとか聴衆のためだけを考えているのではない。ジュリーニは、かつて私にこう言った。「作曲家というのは本来、最も良い作品はカルテットのために書いているのです。四つのパートからなる室内楽は、最も簡素で価値に富んだ音楽だと思います。」これは、マエストロ・ジュリーニ、即ちゆっくりしたテンポの指揮者・雅量ある人間・忠実なる音楽家、としてだけの言葉ではない。そこには、ヴィオラ奏者ジュリーニの顔を一瞬見ることができる。ジュリーニが以前演奏していた、この気高くも弾きにくい楽器は、彼の音楽観の秘密に一枚かんでおり、たびたび内声部を表に出させることがある。
福島章恭
ジュリーニは歌の人だ。演奏のどこを切っても、ティンパニの一打にすら豊潤な歌が溢れている。それはトスカニーニのようなナイフの切れ味を持った歌ではなく、独特の粘りとうねりを伴うのが常だ。ジュリーニの歌に惹かれるのは、それが誰にも真似できない「豊かな響き」を持っていること。また、いかに歌が洪水のように溢れていようと、その道筋が道理に適っているからであろう。然るべきところにアクセントがあり、その長い呼吸には不自然さが一つもない。
ライナー・キュッヒル
マエストロ・ジュリーニのエネルギーが強いので、私が後ろに伝える必要はないのです。動く人はたくさんいるけれど、ああいうものを発する指揮者はもういないでしょう。
本当に満足のいく演奏というのは、指揮者も楽団員も磁石に吸いつけられるように音楽の中に没入している時のことだと思います。音楽以外のことを全て忘れ、時間も忘れ、永遠を感じている時です。そういう経験は一度だけですが、マエストロ・ジュリーニと、ブルックナーの交響曲第9番を演奏した時に、みんなすっかり音楽に捕らえられてしまいました。また、この時には、指揮者が自分を出そうとするのではなく、逆に自分を引っ込めたことにも感動しました。一般に今の指揮者は、舞台の上で「普通の人間」に見えることに不安を持っているのではないでしょうか。それで自分を目立たせようとするのではないかと思います。
國土潤一
ジュリーニの演奏は、常に虚飾とは無縁の、真摯にして誠実な楽譜に向かう姿勢と、それを実際の演奏として組み上げる上での、これまた誠実な練習姿勢に貫かれている。昨今の「新解釈」と銘打って不必要な理論武装を身にまとい、作品を自らの売名行為の手段とする商売人が跋扈する中、ジュリーニはその対極に位置している。ジュリーニの姿勢は、楽曲と対峙する演奏者の「徳」を示している。彼の録音は、「本物」の少なくなった現代において、改めて音楽する者が目指すべき道を指し示してくれている。
大木正興
ジュリーニは、その技能の全てを使い尽くして自分の心からの音楽を奏でる。精細な楽譜の読みには鷹の眼のような鋭いものがあり、しかもその読み方が字づらを正確に読みきるという能力以外に、十分納得し音楽として自分の内に収納しきれたときにだけ音に出しているという、極めて深い精神的作業と一体であることを感じることができる。そしてジュリーニには、「効果」への欲望の身ぶりすら見えない。特別に美しいのは、ゆるやかに歌い、細密にひびきや線の重なりを調整していく時の、深く、そして鋭い緊張である。この「精神の持続力の強さ」こそが、まっすぐに自分の信念だけで強く押し出されてきた彼自身の様式である。
岩下眞好
ジュリーニの指揮する演奏会は、音楽のみに献身する崇高なまでの指揮ぶりと、そこから紡ぎ出される一音たりとも揺るがせにしない熟成しきった音楽によって、常に最高の感動を呼ぶ。耳に媚びる細部の美感や演出を一切排した、ジュリーニの純粋極まりない音楽は、もはや祈りにも近い。ジュリーニは、衒いも気取りも気負いもなく、もはや自負心とか個人の意図とかいった次元をも超越して、ただひたすら作曲家が書いた音を、心を込めて鳴らしてゆく。
ウィーンの音楽ファン、それも、ウィーン・フィルの定期演奏会を聴き込んでいるような耳の肥えた人々のあいだでは、ジュリーニは大変な人気だった。ヨーロッパには、他国での演奏会にまで足を運ぶ「ジュリーニの追っかけ」がいるほどだった。ジュリーニが登場するウィーン・フィルの定期演奏会は、聴衆の雰囲気が独特で、まるで祈りの時間のようだった。
藤田 茂
ジュリーニの指揮だと、全体のテンポはゆったりとしているのに、生命感のある演奏になる。普通は弾き飛ばされてしまうような細部までが、くっきりと立ち上がってくるのが凄い。最初はカセッラやモリナーリのもとで作曲を学んだジュリーニが、どれだけ鋭敏な造形感覚を持っていたかが改めて確認される。
諸井 誠
一見、楽譜忠実風のジュリーニだが、実は細かいところで全て彼流。どの曲でも、ジュリーニはジュリーニの王道を行く。
イェルク・フォン・イェナ
ジュリーニの狙いは、カラヤンのような指揮者のものとは根本的に違っている。カラヤンは、コントラストと緊張感を探求し、幅広い空間を表出し、音楽を最終的に凱旋となる道の入り口に立たせる。それに対してジュリーニは、思慮深く帰納的に、音楽の至福の瞬間のために前進する。
いわゆるステレオタイプのイタリア人指揮者とは真逆である。空々しい感情の爆発や、目的のないオペラティックなペーソスとは無縁である。ジュリーニは、ある種の高潔さを持っており、指揮の技能ごときでは満足しない。音楽の心と精神だけが重要なのである。
ウォルフガング・ブルデ
ジュリーニの音楽は、伝達に注力し過ぎることなく、革新的過ぎることもなく、その代わり内面のほとばしるような表出が聴ける。
クラウス・ガイテル
ジュリーニの姿こそが、音楽家の最も自然な姿と言えよう。奇をてらうことも、音楽そのものの意志を曲げることもない。ジュリーニの芸術は、絶えず、厳格なドイツ精神と地中海特有の感受性を結合させる。ブルックナーの後期ロマン主義の中にさえ、パラディオ建築の持つ輝きを垣間見ることができる。解釈は明快で静止し過ぎることはなく、シューベルトでもマーラーでも、絶妙なバランスが感じられる。
ジュリーニは、自らが指揮する作品から静かに一歩引き下がる。この指揮者には主役を買って出るような素振りは一切ない。その集中力は目前の曲に注がれ、曲全体を包み込むかのようだ。
ウォルフガング・シミング
最小限の動作で、オーケストラからこれだけ優雅で心地よい響きを引き出せる指揮者はそうはいない。ジュリーニは、動作を抑制しつつ、絶えず音楽のバランスを保っていた。各楽器が奏でるパーツを構成要素とし、音楽全体を構築することができる。
佐渡 裕
僕が30代の半ばで、ミラノのジュゼッペ・ヴェルディ交響楽団の客演指揮者になったとき、楽団の名誉指揮者だった巨匠ジュリーニの自宅にお邪魔したことがある。約束の5分前に行くと、自宅前の門のところで僕を待ってくれていた。1時間くらい話をしてくれた中で、「あなたは現代曲をやるのか?」と尋ねられた。「やります」と答えると、「それは時間を捨てているようなものだ。ベートーヴェンとブラームスだけを指揮しなさい」と言われた。クラシック音楽の古典中の古典。伝統の中核にいるような2人の作品には、一生を費やしても尽きることのない音楽の豊かさが溢れている。ジュリーニはそう言いたかったのだと思う。一人暮らしで、机の上のカレンダーを見ると、引退してから何も予定が入っていなかったのか、僕との約束の日のところにだけ、赤いマジックで「5:00pm SADO」と書いてあった。それがすごく嬉しかった。
エフゲニー・キーシン
カラヤンの追悼コンサートで、ジュリーニが演奏したシューベルトの「未完成」とブルックナーの「交響曲第9番」。これには完全に打ちのめされた。ジュリーニの芸術全体(その簡潔さ、奥深さ、高潔さ、そして聴く者の魂を揺さぶる崇高さ)が、どんな芸術よりも貴いと心から感じたのだ。
実際に交流してみると、ジュリーニは貴族そのもの、紳士そのものてあり、とても信仰心の厚い人だった。ジュリーニは、その音楽そのものが深遠であり、崇高であり、精神を高揚させる。指揮する時、ジュリーニはオーケストラの奏者たちへの指示を、手の振りで行うわけではない。奏者たちにしてほしいことを「願う」のだそうだ。すると、奏者たちは快く全てに応え、奇跡が起きるのだった。
ジョン・マウチェリ
私は、ジュリーニほど何事にも造詣が深く、精神性を感じさせる人物には会ったことがない。1980年のある日、私はロサンゼルス・フィルハーモニックの演奏会で、第一ヴァイオリンのすぐ後ろの舞台袖に座らせてもらったことがある。その日の演奏曲は、シューベルトの「未完成」だった。曲の途中のある個所で、ジュリーニは手の平を上にした左手をヴァイオリンの方に伸ばした。その様子は、惨めな境遇に置かれた自分を卑下する物乞いを思わせ、悲しげな眼は、ヴァイオリン奏者ではなくそのずっと後方を見つめていた。その時、私は初めて、シューベルトがカトリックの環境に育ったことを肌で感じ取り、この交響曲が、一人ひとりの心の中に棲む天使と悪魔の闘いを描いたものだと理解したからである。シューベルトはこの作品を未完のまま残したかもしれないが、ジュリーニの棒にかかると、もはや不完全な作品ではなかった。指揮者は楽曲を解釈するだけでなく、それを変容させ、更には新たな光をあてて輝かせる力を持っている。あれは、私にそう気づかせてくれた忘れがたい瞬間だった。
ジュリーニはミスを指摘するのが嫌いで、オーケストラが自ら気づき、訂正してくれるものと信じていた。ところが、ロサンゼルス・フィルハーモニックとドビュッシーの「海」のリハーサル中、首席コルネット奏者からどうにも受け入れがたい演奏が聞こえてきた。何回か繰り返して演奏した後で、コルネット奏者のパート譜とジュリーニのスコアに食い違いのあることが分かった。問題が解決するとすぐ、ジュリーニは自分が早めに指摘しなかったことについて全員に謝罪した。オーケストラのメンバーは、改めてジュリーニが好きになった。
ジャン=イヴ・ブラ
ある時、ジュリーニは私に、演奏者それぞれの譜面台に置くパート譜を見せてくれた。そこには、微細に注釈が書き込まれていた。各楽器パートについてのこの綿密な努力は、リハーサルを能率的に進めるためではなく、演奏者に、その楽器に期待されている役割をよりよく理解させるため、特に大オーケストラの中で演じるべきそれぞれの役目を正確に認識させることを目的としていた。ジュリーニに出会ったことで、ある作品に取り組む時に、音楽家としてばかりでなく一人の人間として相対し、調和を追い求める姿がいかに重要であるかを知り、私は心打たれた。
中川右介
1978年に、ウラディミール・ホロヴィッツは、アメリカデビュー50周年記念演奏会でラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を演奏しようと考えた。指揮者は誰がいいか。関係者が何人もの世界的巨匠の名を挙げたが、その度にホロヴィッツは辛辣な批評をして断った。その中で、彼が認めたのはカラヤンとジュリーニだった。しかし、二人ともこの曲はやらないだろうと候補リストから消え、結局、この時はオーマンディが指揮をした。その11年後、ホロヴィッツが初めてモーツァルトの協奏曲を録音することになった時に指揮者に選ばれたのがジュリーニだった。
ギュンター・ブレースト
ピアニストのミケランジェリは、演奏に際して自らに極めて高い要求を課すると同時に、共演者にも同じことを求めることはよく知られていた。ベートーヴェンのピアノ協奏曲を録画・録音するにあたり、ジュリーニと共演することは、ミケランジェリが望んだものだった。また、ホロヴィッツがモーツァルトのピアノ協奏曲を録音する際にも、ホロヴィッツが望んだ指揮者はジュリーニであった。関係者全員にとって苦労の連続となった録音だったが、結果は素晴らしいものとなった。この小さな歴史的成功は、ジュリーニという紳士抜きにはとても実現しなかったであろう。
大山平一郎
「Basta(もう、たくさんだ)!」日頃、威厳と品位に満ちたマエストロ・ジュリーニの顔が、一瞬にしてイタリアの噴火山と化す。奏者の「和」を強調するマエストロの前で、隣同士に座っている楽団員が互いの弾き方を主張し合い、一人が勝手に席から立ち上がって退場し始めたのだ。すると今度は厳かに、「マダム、今あなたがこの場を立ち去ると、あなたは勿論のこと、ここで一緒に練習に参加している同僚の心に、このことが一生傷となって残るのだ。それは、あってはならないことだ。席へ戻りなさい。」この時点でマエストロは、ドン・ジョヴァンニの石像になった騎士長だ。空気が凍りつく。そして、次の言葉が。「私心を捨て、自分の全てを作曲家に捧げて、音楽創りに没頭するのだ。この楽章のはじめから、もう一度練習しましょう。今度は、この楽章を演奏するのに、いかに互いが必要であるかを思いながら弾いてほしい。」
寺岡清高
今でも思い出す指揮のレッスンがあります。モーツァルトの交響曲第39番のリハーサル中に、普通はヴァイオリンが飛ばし弓で弾くパッセージを私がそのままにしていたら、マエストロ・ジュリーニが「スタッカートが書いていないのに、どうして?」と訊かれました。私が、「でもここは大抵飛ばすと思うのですが」と答えると、再度スコアを片手に「どうして?」と。そこで私がオーケストラに、飛ばさず長めに弾くよう指示をしたのですが、奏者たちも半信半疑で弾いていました。するとマエストロは立ち上がり、「皆さん、モーツァルトはそこにスタッカートを書いていません。私のためではなく、モーツァルトのために、どうか一度そのように弾いていただけませんか?」と、まだ10代が多い、ご自分のひ孫くらいの学生たちに懇願したのです。その途端、彼らの音質が一変してしまいました。人間の力とか信念というものが、演奏行為にとっていかに大切か、直接目の当たりにした体験でした。
前田昭雄
尊敬するマエストロ(「先生」と呼ばせて下さい)、先生はとうとう逝ってしまわれたのですね。ウィーンで素晴らしいブルックナーを聴かせていただき、また、忘れられないお話を伺ったのは1996年の春でした。指揮者という解釈者が、どのくらい自分の我を離れて作品の中に入り込めるのか、東洋的な表現をすれば「没我入神の域」とでも言いましょうか、その一つの貴重な例を、私は先生の指揮芸術に感じたのであります。その際に先生が発揮される沈潜のエネルギーは強烈でした。
一流の列に達した指揮者の中で、先生ほど徹底して振り捌きのタクトを振られない人はありません。あちこちに入りの合図を配達するよりも、本質的なことに集中されていました。細部への気配りは、主に目と身体から発散する「気」から明らかですが、長い上腕の動きが表現的に音楽全体を運んでいきました。贅沢な響きも、重厚な響きも、荘重な響きも、先生の身体は大事に抱えるようにして、素晴らしい時間へとゆっくり、じっくり形成していきました。先生は、劇的な身振りもなくそれを実現されたのです。
木之下 晃
巨星が消えた。巨匠ジュリーニが6月14日、イタリアのブレーシャの病院で逝去。91歳の天命だった。葬儀は、巨匠が晩年を過ごしていたオーストリアとの国境に近いボルツァーノのドゥオーモで、16日に執り行われた。
私にとって、巨匠は指揮者の中で最も尊敬の念を抱き続けた人である。その演奏から、神とコンタクトするかのような神々しい瞬間に幾度か触れた思い出がある。巨匠の指揮ぶりは、オーケストラから音を両手で汲み上げ、それを掌の中で光沢のある色彩感に満ちた音に磨き上げて、宙へ向かって捧げるかのように感じられた。その音楽には、まさに神への尊厳が輝いていたと思っている。
私は今まで、多くの巨匠たちと言葉を交わしてきているけれど、遂にジュリーニだけには声をかけることが憚られた。しかしそのことは私にとって当然のことで、巨匠は、音楽に神の存在を感じさせてくれた特別な人だったからである。
野田和哉
イタリアの各新聞は、前日に亡くなった指揮者、カルロ・マリア・ジュリーニの訃報を大きく報じた。引退後は指揮をしないだけでなく、聴くことさえもやめてしまっていた。だが音楽界に残した業績は大きく、引退はしても決して忘れ去られた存在ではなかった。それが今度の訃報の大きな扱いに反映されたのである。
彼が若手の指導に情熱を注いだ、ミラノのヴェルディ交響楽団の本拠地にあるオーデトリアムには、彼の指揮棒と、幼い頃に両親から贈られたというヴァイオリンが展示されている。指揮棒はよほど大切にしていたらしく、同じ棒を長年使い続けていたのである。謙虚に音楽に仕えたジュリーニの姿勢は、聴衆だけでなく、彼と共に仕事をした多くの音楽家にも感銘を与えた。
中矢一義
3年ほど前、チョン・ミュンフンに師の近況を尋ねたところ、「2年ほど前に自宅を訪れたが、本人に会わせてもらえなかった」と語っていたので、遠からずこの日が来ることは予測していたものの、実際に訃報に接し、改めて深い追悼の思いを噛みしめている。
私にとってジュリーニは、最も敬愛する指揮者だった。1982年、彼の15年ぶりのオペラ・ハウスへの復帰となる、ヴェルディの「ファルスタッフ」のリハーサルを見学することができた。見学者の中には、ジェフリー・テイト、サイモン・ラトル、そして当時イングリッシュ・ナショナル・オペラの音楽監督だったマーク・エルダーなどがいた。リハーサルの合間に、エルダーに感想を求めたところ「物凄く勉強になる!」と興奮した口調で語ってくれたことも思い出深い。
ジュリーニを親しく知る人たちが異口同音に発する評言は、「誠実な人」「完璧な人間」だった。そして私がジュリーニと接する機会を得て実感させられたのは、まさに評言通りの実像だったのである。
レンツォ・アッレーグリ
カルロ・マリア・ジュリーニが旅立った。穏やかな、自然な旅立ちだったことだろう。彼は敬虔なカトリック信者であった。だから死は彼にとって、神の御許へ向かうことなのだ。
ジュリーニは1998年に引退した。その後の彼は、全く音楽について語らなかった。私には自身の録音を聴くこともないと言っていた。ラジオ・テレビ・新聞も音楽に関するものは一切見聞きしない、とも言っていた。音楽を、その個人的な思い出を含めてすっかり意識の外に置いたのだった。
思い返すと、確かに1998年以来、彼と話したのは音楽以外の、絵画や文学についてである。彼は大変な読書家だった。私が自分の著作を贈ると喜んでくれた。そしてすぐに、感謝の電話をくれた。あるいは数週間後に、既に読んだと感想や意見を述べてくれた。それはいつも、丁寧な深い思いやりの言葉にあふれていた。電話は妻が受けることもあり、ジュリーニは妻ともよく話していた。妻が驚いたのは、そうした時の彼の慎ましい話しぶりであった。
引退後の彼は、家で静かな日々を過ごしたが、日課にしていたのは日に2回の散歩であった。スカラ座のすぐ裏にあたる彼の家の周辺は、閑静な住宅街でありながら、美術館や美術学校、古美術商、有名なブティックも多い。朝と夕、彼は帽子をかぶり、少し暗いレンズの眼鏡をかけて散歩に出かけ、背筋をすっと伸ばし速い足取りで歩いた。近くに住むバリトン歌手のG.ヅェッキルロは散歩中のジュリーニによく出会った。私は、ジュリーニからしばらく連絡がないと、健康状態が心配になり、ヅェッキルロに電話した。彼がマエストロに会っていれば健在というわけだ。
ヅェッキルロはある時、私に、大指揮者の生き様を知るのに興味深い報告をしてくれた。散歩中のマエストロは、よく人から挨拶されたという。時には、勇気をふるって話しかけ、サインを請う人もいた。するとマエストロは、それが誰であっても立ち止まり、帽子を取った。帽子をかぶったままは非礼とする、彼の相手への敬意の表れである。彼にとっては、相手が男でも女でも、有名人でも見知らぬ勤労者でも、一人の尊い人間であることに変わりはなかったのである。
彼は、死を恐れてはいなかった。何度か私に言ったことがある。「妻のマルチェラと、両親に会える日を楽しみにしているのだ」と。今、向こうの世界で皆一緒のことだろう。カルロ・マリア・ジュリーニの思い出は尽きない。私にとっては、偉大な指揮者であっただけでなく、それにも増して偉大な人間、賢人、さらには聖者であった。
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