音楽について
「音楽は偉大なる奇跡であり、偉大なる神秘です。一つの音符でさえ、それは神秘であり、その中に奇跡を湛えています。音符は突然現れて、生まれるとすぐに消えてゆきます。指揮をするにも楽器を演奏するにも、音楽に関わる全てのことが私を魅了して止みません。」
「私が取り上げた作品は、私の生の一部なのであって、私の頭脳の一部でもなく、スコアに関する知識の一部でもありません。人生の一部にならなくてはいけないのです。私はスコアと共に生き、スコアは私の一部になります。その瞬間、私は作曲者の召使になります。作曲家は天才で、私は何者でもありません。」
「大芸術家たち、天才たちの仕事は、本当に特別です。こういう偉大な作品に接して、私たちが感じる一番大切なことは何か。それは、神を信じることだと思います。そして二番目に、人を愛すること。信仰と愛ですね。そして彼らは愛によってこういう大きな贈り物を人類にくれたのだと思います。人間をそれだけ、豊かにしてくれる。そういう贈り物が名作の数々です。音楽が人間に語りかける。そう、あらゆる感情を。それはみんな良い感情で、音楽は悪い感情は表しません。良い感情を豊かに表すのです。人間的な感情、情熱も、悲しみも、痛みも。でも、悪いのは何もないのです。」
「指揮台に上がる前というのは、ひどく怖いのです。できるものなら逃げ出したい。胃に激痛がきて、食べることも飲むこともできなくなります。立っているのもたいへんなくらいで。でも、それでいいのだと思います。いつも怖くありたいと思っています。こういった苦痛を伴うほどの不安なしに指揮台に上がる日が来たら、慣れで仕事をするということで、その時に私は終わりでしょう。でも、コンサートの時間になって、係の人が指揮台へどうぞと呼びに来ると、全てが消え去ります。実に穏やかな気持ちに、そして一種の忘我の境になるのです。その瞬間に、音楽に対する愛の行為が始まる。音楽が私のものになり、私は言葉に尽くせない時間を生きるのです。疲れさえ感じません。肉体的にひどい無理をすることになる演奏もあるけれど、それを感じないのです。30歳の頃のエネルギーと情熱がまだあるんですね。」
「曲を知っているというのは第一段階にすぎず、第二段階は曲について瞑想することで、第三段階はそれが血になるまで吸収し、その曲が身体の一部になった時、ようやく指揮する用意ができます。」
「私の喜びは、彼ら(オーケストラ)が喜びを持って音楽を作り出し、音楽という偉大で神秘的な対象に参加しているのを感じてくれることなのです。全てが新しい発見なのです。一回一回が新しい経験で、とても興奮しますし、心が動かされます。」
「毎日、バッハやモーツァルトやベートーヴェンを相手にさせてもらっているうちに、自分のことが分かってきます。私たち指揮者は、天才と接するとても大きな特権を持った小さな人間であるだけなのです。これを知ったら、私は偉大な精神の忠実なしもべでなければならないのです。」
「演奏のためには、よく勉強して、よく考えて、そう、作曲者が本当に伝えたいことを理解しようと努めるわけなのですが、これが非常に難しいのです。音楽というのは、厳密な数学的法則に則って構成されていながら、それでいて法則の尺度が、尺度の基準が無いのです。作曲家は、様々な方法で解釈できる記号を残しています。指揮者の務めは、作曲者の意図に沿って、そうした指示を正しく解釈できるようにすることなのです。」
「天才を理解するのは、言葉が明快な文学でも難しいのです。ましてや、記譜が大まかな音楽では一層です。だから、絶えず勉強し続け、考え続ける必要があるのです。早合点はいけません。急いで得る結果より時間をかけた結果の方が良いはずですから。」
「歴史には厳しい裁きがあります。モーツァルトやベートーヴェンの時代、何十人もの作曲家が活躍していたわけです。そのうちの何人かは紛れも無い天才と考えられていたのに、その後消え去り、完全に忘れ去られてしまいました。一方、バッハは長年埋もれていたし、ヴィヴァルディも同じ運命でした。こうした歴史の姿には考えさせられます。私が思うに、音楽が、ある流行やらある時代に結びついた感情の表現である場合は消え去ることになり、それと違って絶対的なものの表現である場合はいつまでも残るのではないでしょうか。我々の時代の音楽で何が残るか、それは私には分かりません。」
「音楽の話をする時、我々は大体において、実際にはまだ若い芸術について話をしているのです。せいぜい400年ほどの。楽譜が定着するまで、音楽は、存在はしていたけれど、何千年もの間、記録されることなしにきたのです。でも、それができるようになって、モンテヴェルデイからシェーンベルクまで、音楽は驚くほど素晴らしい道を来たと思います。その後、何かが起こった。エデンの園からの、地上の楽園からの追放ですよ。音楽はその本質であった普遍性ある語法が失われ、もはや多くの人々に語りかけられなくなってしまったのです。今のこの時代、例えば、映画の映像解釈の補助にはとてもいい効果音としての音楽は生み出せるのでしょうけれど。我々のこの時代が真の音楽を生み出したかどうかは、多分100年後、200年後になってから分かることだと思います。」
「オペラについては私なりの考えや信念があります。私は、オペラの実現のためには3つの要素があると思っています。音楽を作る楽器となるべき声・視覚面の演出・繰り返し練習するための時間です。私は良い時代にオペラをやりました。非凡な声の歌手たちがいて、優れた演出家がいて、準備をするのに十分な時間もありました。でも、時代と共に事情も変わってしまって。作曲家を忘れてしまったかのような、演出家の「椿姫」や「ドン・ジョヴァンニ」をやろうとし始めましたし、歌手は練習の時間が無いのです。世界中のあちこちの契約を背負わされているから、ほんのわずかしか練習しないし、次から次へとスケジュールに追われて声は消耗し切っています。そういう状態でオペラをやることは私には無理で、それですっかりオペラからは手を引いてしまったのです。」
「指揮は教えられるものではありません。読譜や解釈の根拠について話すことならできるでしょう。でも、それぞれの人が持っている音楽の世界を表現するための身振りを教えるのは不可能です。私は若い頃、幸運なことに過去の偉大な指揮者のもとで演奏しましたが、みんな独自の指揮法を持っておられました。」
「優れた指揮者になるためには、特別な秘訣というものはありません。作曲を十分に勉強することと、それから、ある曲の構成を修得するにはその曲の楽譜を手で書いてみると役に立つと思います。また、オーケストラを知ることは必要です。オーケストラは、楽器ではなく、楽器を演奏する人たちの集まりです。優れた音楽家は、タイピストとは違って、書かれたものをただ正確に音に写すのではありません。音楽家なら、そこに何か自分を、自分の命の証を注ぎ込むはずです。そうして初めて音楽が生きたものになるのです。そして指揮者は、オーケストラのメンバー全員の命の証が音になるような状況を作り出すのが役目なのです。」
「音楽は唯一の、紙の上で死んでいる芸術です。詩も絵画も、紙の上で生きているでしょう。それに対して音楽だけが、音にならないと生きないのです。でも、それを書いた天才の音楽は生きています。それを紙の上の記号に再び与えること、それが音楽するという行為なのです。それが成し遂げられると、生きたものが時間に流れます。私たちの課題はそれに尽きます。」
「完全な、理想的な演奏というものはあり得ません。私にも誰にも、あり得ないのです。作曲家でさえ、その作品がどう完璧に実現されるのかは知りようがありません。しかし、最初の音から最後の音までの、鳴っている時間は、結局は「愛」の問題です。」
「若い人たちと音楽するのはいいものですね。技術的には、随分しっかりしています。あとは一緒に作品を愛することを教えなければいけません。その後で全てが解決します。」
「リハーサルでは指揮者と演奏者たちがコンタクトを持つことが重要で、精神的にも音楽的にも理解し合い、完全に一つの方向を目指す必要があります。でも、リハーサルでは、あともうちょっと、という部分を残しておく必要もあると思っています。それを演奏の瞬間まで取っておくと、演奏した時に何かが生まれます。そう、新しい生命が生まれるのです。」
「演奏する「アウフヒューレン」とか「シュピーレン」とかいうのは、ちゃんと弾けていても十分でないことがあります。音楽する「ムジチーレン」というのは、手や喉の技術的な問題でなく、心・魂から来るのです。だから、天才の作品を技術だけで演奏しても、紙の上の音符は死んだままです。」
「音楽がドラマティックに展開するときにも、それは論理的に展開されるものでなければいけません。」
「ブラームスの音楽は、それがどんなジャンルであろうと、私の人生の一部なのです。」
「私は聴衆のために演奏するのではなく、彼らと共に音楽をするのです。」
「優れた作品は、次々に現れる解釈の変化に耐えてゆく点で偉大なのです。私たちが100年前の人々とも、次の世紀の人々とも異なったものを感じているのは疑いありませんが、バッハはそれでもなおバッハなのです。」
「毎日、研究を続けなければなりません。学ぶべきことが何もないと感じる日が来れば、それはやめる日が来たということです。魂が死んでいるのですから。」
「ワーグナーを指揮しない、ということではありません。バイロイトに招かれて、「タンホイザー」を指揮するように言われたことがありますよ。しかし、私の承諾もなしに歌手を二人も変更したので、指揮者に無断で歌手を変更するのなら、あなた方で指揮をしたらいかがですか、と言ってやりましたよ。既に、プログラムの全てが決定されていました。こういうことは、とても受け入れられません。」
「私の欠点だと分かっていますが、指揮をするためには、理解しなければならないのです。100パーセント以上自分に正直にならねばなりません。今の私は、技術的にはマーラーもブルックナーも指揮できるのです。だから、あとはドアをノックしてくる作品があれば、私がドアを開けるというわけです。天才を扱わなければならないのですから、指揮する全ての音を信じられる瞬間が私には必要なのです。もし、マーラーの交響曲のうちで、完全には納得いかないような何かがあれば、それは私が悪いのです。その何かを理解し、解決した瞬間に指揮ができるようになるのです。」
「私は、指揮するという言葉が好きではないのです。私はずっと、若い頃から音楽してきたのですから。指揮するというのは一種のコマンド、命令でしょう。皆と一緒に音楽するというのは、自然に成立するのです。オーケストラの皆、特にコンサートマスターとかいうのではなく、全員ですよ、全員で一緒に参加するのです。この幸せに、この栄誉に。この天才の作品に皆で奉仕して、できるだけいい仕事をする、そういう幸せを皆で実現するのです。」
「偉大な作曲家の作品には、愛、憎しみ、情熱、嫉妬、喜び、悲劇、笑いといった、あらゆる種類の人間の感情や感覚が込められています。しかし、シューベルトにおいては、それに加えて儚さが見られるのです。この、非常に親密で特殊な感情はブルックナーにも見られるもので、演奏者に多大な繊細さを要求します。特に私たちの時代において、シューベルトはとても重要です。おそらくは、だからこそ彼の偉大さが認識されてきたのでしょう。」
「ヴェルディの音楽は、台本と演劇性の要求から一音一音を導き出したように感じられます。しかし、プッチーニは、しばしば純粋にメロディー的な理由で音楽を書いているように感じられます。」
「私は、ヴェルディの作品の中では「ファルスタッフ」に最も惹かれます。シンフォニックなオペラでもありますし、音楽と演技と演劇という三要素がいずれも高水準にありますから。そしてもう一つ。人生のありとあらゆる経験をし、イアーゴやリゴレットのような激しく屈折した登場人物のための音楽を大量に作曲してきたヴェルディが、愛の夢に浸る情景のために音楽を書いたからです。」
「リヒャルト・シュトラウスの作品には、いつか立ち返るつもりでいます。ワーグナーの作品は、もしも条件が整えば「トリスタンとイゾルデ」と「マイスタージンガー」については、自分の中で指揮をする準備はできています。ただ、「指環」は、超人的な作品ではありますが非人間的に思えるので興味はありません。」
「現代音楽の作品を聴き終えた人は、『非常に興味深い』と言います。しかし、これは感動した人の反応ではないように思えます。」
「ブルックナーとマーラーを区別するのは難しいです。この二人の作曲家は、全てが基本に忠実なベートーヴェンと異なり、主題の要素が展開部でバラバラに分解しているので、交響曲の構造がバランスを欠いているように感じられることがあります。」
「私にとって自然でしっくりくるのは指揮だけなのです。あとは全て難しいです。楽器の練習も、作曲の勉強も、一生懸命に勉強しましたがそれでも難しかった。今も、スコアは本当に一生懸命勉強しなくてはなりませんが、指揮の練習はしたことがないのです。」
「指揮台に上がって何をするのかは考えたことがありません。特定の楽章で特定の事柄を伝えるための練習もしたことがありません。私の望みは、オーケストラに理解してもらいたい事柄を私の手を通じて伝え、彼らがそのように演奏してくれることです。」
(ロサンゼルス・フィルハーモニックの最初のリハーサルに先立ち)
「しばらくの間は、皆さんの名前を全ては覚えられないでしょう。でも、私は皆さんの目を知っています。」
「私は指揮棒を持って立っていて、示すべき意見も持っています。でも、私が間違っていると思ったら、私を正して下さい。また、たとえ私が指揮棒を持ってここに立っていて、一応指揮者のつもりではいても、私たちは一つなのです。一番後ろの席の方も、一番前の席の方も、大切であることに変わりありません。もしも私たちが平等でなくなったら、私たちはオーケストラではないのです。」
「ある指揮者が、もしも本物の指揮者ならば、ひとつのオーケストラに自分の特徴を植えつけるのにかかる時間はせいぜい1週間でしょう。まあ、こんなことを言えるのは私がラッキーだからかもしれません。なぜなら、これまでどこに行っても自分の思い通りに演奏してもらえたのですから。」
「音楽を創るためには二つの基本的な事柄が必要です。一つは技術的な熟達。オーケストラは表情とフレージングとダイナミクスを必要に応じて変化させることができなくてはなりません。もう一つ必要なのは精神的な事柄、すなわち愛です。もちろん、世の中にはさまざまなレベルのオーケストラがあって、その幾つかとなら高いところまで到達できます。しかし、レベル的に悪いオーケストラとでも音楽は創れるのです。確かに演奏には欠陥があります。でも、そこに皆の大いなる愛と情熱があれば、音楽は創れるのです。」
「シューベルトの未完成交響曲が4楽章制で書かれていないことは問題ではありません。なぜならば、この構築的な二つの楽章で、シューベルトはその時に言いたかったことを全て言っているのですから。また、私は音楽学者に対して全面的な敬意を表しますが、シューベルトをハイドンの世界に引き戻そうとするのには賛成できません。シューベルトは、ハイドンではない同時代人の空気を呼吸しているわけで、いずれにせよ天才というものは、過去ではなく未来に目を向けるものだからです。もしもシューベルトの世界を他の作曲家の世界と結び付けなければならないとしたら、それはハイドンではなくブルックナーでしょう。なぜならば、シューベルトには新しい世界の息吹が感じられるからです。同じような感覚がマーラーにもあります。彼は第一次世界大戦の前にウィーンで作曲していたにもかかわらず、その音楽は後代のドラマティックな変化を先取りしていたのですから。」
「マーラーの音楽で私の心を最も引き付け揺り動かすのは、世界が永遠に終わろうとする前兆を表していることです。攻撃的なやり方で語るのではなく、大いなるやさしさを持って語っているのです。マーラーは、苦痛の下でも、涙にくれていても、優しく微笑んでいます。マーラーの第1交響曲と第9交響曲は、私にとって比類のない極点の作品です。第1番は人間の勝利で終わり、第9番は途方もない極限の平和への希求で終結します。この2つの作品はまるでアーチのようで、上空を飛翔しあらゆる人間の条件を共有して閉じていきます。本当に、マーラーを指揮するのは大変な苦痛なのです。他のどんな作品も、これほどの努力、熟考、瞑想、そして禁欲を私に強いることはありませんでした。この第9番だけなのです。」
(ベートーヴェンの交響曲全集を録音するにあたり、なぜスカラ座管弦楽団を選んだのか)
「このオーケストラがいいと思うからです。それと、オペラに長い伝統を持ち、シンフォニックな音楽については深いけれど短い伝統しか持たないイタリアのオーケストラに、ベートーヴェンを通じて自己を表現する機会を与えるのはいいことだと思ったのです。それができたのが嬉しいし、このオーケストラの反応も完全に肯定的なものでした。」
「残念ながら、私の血にジャズは流れていないのです。戦後、オール・ガーシュウィンのコンサートを振らないかと言われ、気軽に承知したことがあります。ですが、後に二度と指揮しないと決めました。なぜならば、この音楽は私と全く接点がないからです。そのためには、脈拍に何かが必要です。血の中に受け継がれた何かを感じなければなりません。」
「指揮台は、危険なものなのです。それは心の指揮台になりがちで、指揮者はこれを、自分が全世界と人々を見下ろすための正当な場所と勘違いしてしまいがちなのです。その意味で、指揮者は危険な職業です。だから私たち指揮者はあらゆる事柄、わけても作曲家とそのスコア、そしてそれを実際に音にしてくれる仲間に対して謙虚にならなければなりません。」
「音楽というものは、傾注した努力に報酬を返してくれる、感謝すべき稀なる恩恵だと思います。人生において、人は働かなければならぬという原則があり、中には劣悪な条件で働かなければならない人もいるのですから、私たち音楽家は幸運です。だって、いいホールの立派な椅子に座ってモーツァルトを演奏できるのですから!」
「楽譜の研究とは何でしょう。それは、言うなれば愛のようなものです。出会い、好意を持ち、愛する。それはつまり、音楽が自分の中で生きていると感じること、自分の分身のように思えることです。それが私たちの仕事の意義であるべきです。」
「シューマンの音楽は、ロマン主義表現の神髄です。彼は音楽史上、最も非凡で魅力的な人物であり、偉大な芸術家の一人です。彼は、人間としてはごく稀な、二つの性格を持ち合わせていました。それは、勇気と寛容です。勇気は、一生を通じて彼の支えとなりました。周囲の無理解と嘲笑から自分の音楽を守り、そして結果的には彼を死に至らしめることになった病への恐怖と闘ったのです。また、持ち前の寛容さで若い音楽家たちを発掘し、世に送り出しました。彼は、伝統的な形式に従って優れたピアノ曲の数々を書いた後、交響曲の作曲に挑戦しますがオーケストラと交響曲の形式はなじみの薄いものでした。モーツァルト、ハイドン、ベートーヴェンにとっては楽想を管弦楽に置き換えて交響曲に発展させるのは自然なことでした。しかしシューマンにとって交響曲を書くということは楽想を一定の形式に閉じ込めることでした。オーケストラで表現するのは苦しい闘いでした。第3番「ライン」には、彼ならではの豊かな楽想が迸っています。そこには、情熱、苦悩、ドラマ、焦燥、そして優しさがあります。」
「指揮する際の身振りについて言えば、トスカニーニの場合、身振りは重要な要素です。彼の手の動きに、不要なものは何一つ無く、オーケストラから思いのままに音を引き出すことができました。リズムは明確で、左手は単に音色や強弱を合わせるだけに使いました。また、フルトヴェングラーの場合は、彼の身振りは技術的な観点から見れば間違っています。変なふうに震えているからです。オーケストラに混乱を招きます。オーケストラのためにリズムを刻む時でさえそうだったのです。あの身振りは間違っています。しかし、彼がどれほど偉大であったかは言うまでもないでしょう。例えば、彼のベートーヴェン交響曲第5番のアタック。このアタックは明確でなくてはなりません。あの音でオーケストラは演奏を始めるのですから。彼はまず、震えるような手つきで上から下まで振り下ろします。地面に力いっぱい叩きつけるような感じでね。その後は全くの沈黙です。オーケストラの沈黙は、聴衆が耐えられなくなるまで続いたものです。すると突然、オーケストラが爆発したように演奏を開始するのです。言葉では到底言い表すことができません。私にもこんな経験があります。オーケストラの反応は、いつも遅れがちになるものです。ブラームスの交響曲第3番を指揮した時のことです。オーケストラが遅れることは予め承知していました。ところが、誰もがよく知っている和音のところで、リハーサルと同じように手を振り上げたのですが、その手を振り下ろした後、いつまでも沈黙が続いたのです。あまりに沈黙が長いので、ふと思いました。オーケストラのストが始まったのか?とね(笑)」
「音楽と人間との関わりは国によっても違います。イタリアでは音楽は市民文化とまでは言えず一般教養にも入っていません。音楽は学校教育の中にも無ければ、家庭生活にもありません。音楽は、もっと人々の暮らしの中に溶け込むべきです。単なる知識にとどまらない生きた音楽を学校教育の中で教えられれば素晴らしいと思います。音楽が家庭生活にまで入り込めば、さらに前進と言えるでしょう。人々は映画を観に行くよう自然にコンサートに行くでしょう。そうなれば音楽は一握りの人々だけのものではなく、日常生活の一部になるでしょう。」
「演奏には無数の解釈があります。唯一絶対の解釈など存在しないでしょう。解釈する側には、無限の可能性が広がっています。だからこそ研究を深めて、テキストをこつこつと掘り下げていくのです。」
「私は、天才たちが謎めかして言ったことを懸命に理解しなければなりません。そのためには、敬虔さ・研究・集中力が必要です。しかし、それは演奏する直前までのこと。演奏する段階になったら、疑ったり躊躇したり謙遜したりしてはいられないのです。その時にはその作品を吸収して完全に納得していなければなりません。これが自分の音楽だ、他に解釈の方法は無い、というぐらいに。」
「指揮法の授業が全く役に立たないとは言いません。しかし、[オーケストラの指揮者]と[指揮する音楽家]は全く別なのです。指揮の才能は抜群なのに音楽性に欠ける人はいますし、音楽の天才で指揮の下手な人もいます。特に後者は、楽譜は読めるのですが指揮の仕方を知らないので音楽になりません。いい音楽家でも技術が無いと指揮はできないものです。」
「完璧を目指すなら、一生コンサートなどできません。完璧を追い求めることによって、コンサート・ホール内の聴衆との自然で直接的な対話が失われてしまうのです。もちろん、レコーディングにおいては、聴衆のいる雰囲気がないので、音楽の生命感や緊張感に特別の注意を払わなければなりません。」
(ベルリン・フィルとの共演について)
「世界の楽壇において、ベルリン・フィルが卓越した地位を獲得していることは、誰もがみとめるところです。このオーケストラには、偉大な存在感があります。この素晴らしい音楽家たちと音楽を創る特権を与えられたことに感謝しています。」
「私は、一緒に演奏したオーケストラを家族のように思っています。お互いに相手のことを理解しています。私は、ひとつのオーケストラから次のオーケストラへと旅をしているわけではありません。音楽家とのふれあいは、単に音楽だけにとどまりません。それは、人間としての付き合いなのです。お互いに家族のようになることは非常に重要なことです。」
「リヒャルト・シュトラウスのことはよく覚えています。彼は1939年に75歳の誕生日祝いにローマに招かれ、私の入っていたオーケストラを指揮したんです。彼はもう伝説的な人物でしたから、彼が来るというのは一大事だったのです。作曲家自身の指揮による「ドン・ファン」の公演に備えて何十回も練習をして、曲は全員が知り尽くしていました。マエストロは小柄な老人で、髪が真っ白でした。指揮台に乗ると、にこっとしてお辞儀をされ、二言、三言、挨拶の言葉を発せられてから練習にかかられました。指揮棒が振り下ろされるや、オーケストラはロケットみたいな勢いで演奏を始めました。けれど、数分したらシュトラウスは棒を止め、こう言われたのです。「皆さんは音符を完璧に演奏なさる。しかし、私が望んでいるのはそうしたことではないのです。音楽は、もっと他の事からも成り立っているのですよ。」そして10分もしたら、それまで何日もやった練習の結果は跡形もなく消えてしまいました。我々は、形の上では完璧にできていたのですが、魂が欠けていたのですね。」
他の音楽家について
「マリア・カラスとは何回も共演しましたが、偉大すぎるほど偉大なアーティストでした。自分の才能の100%を作品に注ぎ込む、素晴らしい人でした。」
「オーケストラのヴィオラ奏者として体験した中で、最も優れた指揮者と感じたのは、ブルーノ・ワルターです。その反対はイーゴル・ストラヴィンスキーです。まるで下手でしたよ。作曲家としては天才ですが、指揮者としては・・・・。」
「ブルーノ・ワルターとの出会いは、本当に忘れ難いものでした。ワルターは、オーケストラの全員に音楽を分かち合わせてくれるすごい力を持っておられました。皆の上に立つ権威の象徴の指揮者ではなく、皆と一緒に音楽を作り上げる音楽家でした。ブラームスの交響曲を演奏した時、私は自分がすごく大事な役割を果たしている気持ちになったのです。まるで、オーケストラと末席ヴィオラの私のための交響曲を演奏しているように思えたのです。全く、驚嘆と言うべき経験でした。」
「フルトヴェングラーは、それはそれは素晴らしかったですね。ええ、とにかく素晴らしい。好きです。でも、個人的な交際はありませんでした。知っているというならクレンペラーの方が親しかったです。フルトヴェングラーは、ヴィオラの席からひたすら尊敬していましたね。それ以上は近づかなかったです。」
「私の個人的な意見ですが、近代の演奏の歴史で、本当に残る改革者は、ヴァイオリンのパガニーニ、ピアノではリスト、そしてオーケストラではトスカニーニだと思います。何故トスカニーニか。オーケストラ演奏の水準がまだ低かった頃、指揮者が自分の好きなようにしていた時期が長かったのです。そこで本当に妥協無くオーケストラを訓練して、しかも正しいのは自分ではなく「事実は楽譜にあり」と示すことができたからです。」
「トスカニーニも、年を取ってからは以前と違ってきましたね。まあ、言うならば、年を取ったということを認めないために、だんだんとテンポを速くしたと(笑)。その上、フルトヴェングラーに対する意識もあったのでしょう。あっちのテンポは遅すぎるのだぞと示すためもあってね(笑)。攻撃的に出たのですよ。」
(サイモン・ラトルへの助言)
「何の心配もいりません。作品の方からあなたに指揮してほしいとドアを叩きに来る時があるものです。その時に取り上げればいいのですよ。」
「そのピアニストについては語れても、人物像については秘密のままである。ほとんど超えることのできないバリアが、芸術家と、自身の人格に囚われていた人を分け隔てていた。私が知る全ての芸術家の中で、マリア・カラスとアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリだけが、このような二重性を持っていた。仕事の際、いつも私たちの間は少しよそよそしかった。私は、アルトゥーロの顔に微笑が広がるのを只の一度も見たことがないが、もっと悲惨なのは、彼の暗い表情の中に、彼がどれほど苦しんでいたかを見て取れたことだった。アルトゥーロ、君はまるで暗闇の中に生きているようで、唯一の例外は演奏している時だった。その時、君は、もしかすると君自身には欠けていた喜びと光を、そして君自身が見つけた喜びと光を人々に対して与える人になったのだ。」
「音楽は貧しくなってしまった。我々の時代には、二人のピアニストが、ピアノが打楽器であることを忘れさせてくれた。ホロヴィッツとミケランジェリだ。」
「私は、レナード・バーンスタインの死を、スカラ座でバッハのロ短調ミサの練習を始めようとしていたところで知らされた。それは、たとえ私がこの偉大なマエストロと特に親しく個人的な付き合いが無かった(事実、私はバーンスタインとはわずか数回言葉を交わしただけで、それも何か特別な問題について深く論じ合ったわけでもなかった)としても、実に悲しい知らせだった。本当に、苦痛とも言うべき悲しみだったのである。付き合いはなかったが、私のバーンスタインに対する賛嘆の念は常に変わることなく、たいへん大きなものであった。私を魅了して止まなかったのは、その音楽に接する際に示す確信、技術的な問題の天才的な解決、その演奏から滲み出て来る高貴な豊かさであった。そして私は、バーンスタインから自分が評価されたことを誇りに思っている。バーンスタインという一人の人物の死によって、偉大なオーケストラ指揮者・才能豊かなピアニストと作曲家が一挙に失われてしまったような事態は、ここ1世紀ほど起こったことがない。この事実もまた、私の内に深い感動と祈りへの強い欲求とを呼び起こすのである。」
自分自身について
「私が最も欲しているのは、高邁な怠惰ozio elevatoです。例えば、ただビーチに寝転がっているのではなく、本を手にして寝転がっている。ただ田舎道を歩いているのではなく、途中で見つけた自然の不思議を観察したり楽しんだりしながら歩く。そういうことなのです。」
「音楽に仕えようとするためには、困難に直面して闘ったり、策謀を克服したり、裏取引を拒絶したために仕事を断られたり、ということもありました。でも、悔いはありません。もし、また最初からやり直すことになったとしても、全く同じにやるでしょうね。」
「私生活は音楽の仕事と何の関係も無いので、申し訳ないけれども、80回目とはいえ誕生日は家で家族と祝いたいし、またそれで十分なのです。」
「ある時、選択を迫られて。スカラ座か家族かで選択しなければならなくなってしまったのです。オペラ界は花園のようでいて、全てがバラ色というわけにはいかないのです。仕事を続けるには、時には妥協することも必要なのですが、私はそれができる人間ではなかったのです。」
「私は決して自分が偉大だなどとは思っていません。ただ、ヒゲを剃ろうと鏡を見ると、自分の背後にベートーヴェンとブラームスの姿が見えるのです。」
「私は、最大の野心以外に野心を持ちません。それは音楽することです。」
「これまでの人生で、たくさんの人と出会い、たくさんの音楽家と知り合い、とても豊富な経験を得ました。ですが、私にとっては、最も素晴らしくて尊いものは家族です。結婚して50年以上、今でも最初の日と同じように妻を愛しています。それに、人生を真面目に責任感を持って生きている息子3人を誇りに思います。」
「戦争が私のコンサート・デビューの妨げになりました。1940年に召集がかかり、私はクロアチアに送られました。41年に結婚式のための休暇をもらい数日間だけ帰国しました。43年の休戦協定の頃には少尉でした。休戦後、選択は2つに1つでした。ローマに行ってナチス軍に合流するか、潜伏するかでした。私はナチス軍に加わらなかったので、9ヶ月の間、指名手配の身になりました。」
「ヴィオラの先生は、私が指揮者を目指していると知るとすぐ反対されました。私の父にも「カルロは指揮者になるには向いていないと思います。あの性格では絶対にやっていけませんよ。」と言われたそうです。父は、もちろん私が指揮台に乗ったのを見たことが無いわけです。私が先生の忠告に従わずに指揮をするというもので、ある日こっそりと演奏会にやって来たのです。演奏会が終わった後、父はこう言ったんです。「パパは間違っていたようだ。お前はやるべきだ。」とね。」
「私は、実質的には指揮は誰にも習っていないのです。学生のオーケストラを指揮させてもらいながら、自分で勉強したわけなんです。」
「妻は1980年に脳出血を起こして、言語機能を司る左脳に障害を受けてしまいました。ただ幸い、情緒や感情は冒されずにすみました。妻は私の命でした。24歳で彼女に恋して、その時からずっと私の愛に変わりはない、と言うよりますます愛は大きくなっていきました。彼女は私の全てでしたから、彼女が倒れた時、私は自分が死ぬかと思いました。彼女の傍らに昼も夜も付き添っているために、音楽を捨てようと思いました。でもその後、それは彼女が喜ばないことだと分かって・・・・。それで、家からあまり遠く離れずにコンサートをやることにしたのです。だから、ヨーロッパから遠い国々との契約はキャンセルにして、演奏回数もずっと減らしました。私は、5日以上は絶対に家を空けません。彼女はそのことを知っていて、1日、2日と日を数えて私を待っています。私が戻ると、顔に喜びの表情が浮かぶのです。もし、もっと長く留守をしたら、彼女を悲しませることになる。だから、これからもそんなことはしません。」
「私の若い頃は、勉強する時間が必要でした。今では、考えるための時間が必要です。」
「愛とは何なのでしょうね。誰かを本気で愛すると、どちらが与えどちらが受け取るのかは問題ではなくなります。私の欲する全てを持ちそれを与えてくれる女性を見つけられたのだから、これは私にとってとてつもなく大きな財産です。また、仲の良い三人の息子を授かったことも幸運でした。これを危険にさらすような真似は決してしません。仕事を犠牲にしてもです。」
「若い頃は、音楽でお金が稼げたり、自分の音楽作りで誰かがお金を払ってくれたりするとは、夢にも思っていなかったのです。オーケストラでヴィオラ奏者だった頃は、もちろん給料を貰っていました。ですが、指揮を始めて、いくら欲しいのかと訊かれた時には、どうしたらいいのか分からず、お金のことが切り出せませんでした。何だか汚いことのようで恥ずかしかったのです。」
「私はホールに指揮をしに来て、そして家に帰っていきますが、仕事と生活を分けて考えたことはありません。」
その他のこと
「今の時代には多くの危険があります。たとえば、量と質のひどいバランスの悪さです。更には、一般的に現代の人々はあまりにも多くのことをしなければならないので、考える時間を十分に持てないということです。自分自身のことを考える時間があっても、テレビが邪魔をします。テレビを見ていると、受動的になってしまい、能動的ではなくなります。」
「勇気がなければ善ではいられません。知性がなければ善ではいられません。気前が良く愛他的でなければ善ではいられません。」
「ルキーノ・ヴィスコンティは、オペラの基本となる音楽と芝居の統合とバランスを深く理解していました。彼が楽譜を読めたかどうかは分かりませんが、彼は知識において音楽的才能がありました。彼が子供の頃、両親はスカラ座の会員で、音楽と文化に浸って成長した彼には歌劇場の血が流れていました。彼との共同作業は、私の芸術家としての、また人間としての人生を豊かなものにしてくれました。」
「日本は好きです。いい国です。現在の私のレコード会社は日本のソニーですしね。だからあの日出ずる国へ演奏旅行できたら嬉しいのですが、無理です。妻のことを考えますとね。日本へは3度行きました。聴衆の注意力、音楽をよく知って聴こうとする真剣な態度、とても響きの良いホールの素晴らしさ、人々の信じられないほどの歓待ぶりなど、よく心に残っています。短期間のうちに、日本人は信じ難い理解力と頭脳の柔軟性を発揮して我々の音楽を、彼らの文化にとっては異質なものだったと思うのに、完璧に自分たちのものにしてしまいました。本当にすごい人たちですよ。」
「親愛なる皆様へ。私のフランス音楽のディスクが、レコード・アカデミー賞に選ばれたことをとても嬉しく思います。残念ながら短期間ではありましたが、日本に滞在した日々をよく覚えています。私に示して下さった、皆様の愛情への深い感謝の気持ちを、この音楽を通して皆様にお伝えできれば幸いです。C.M.ジュリーニ 1995年11月28日」
(スコアの表紙にサインを求められて)
「とんでもない!バッハの名前が載っている所に自分のサインなどできません。」
「恐怖など、キャリアの浅い駆け出しのようですが、何年経っても恐怖はつきものです。むしろ大きくなっていきます。なぜ怖いのか。それは、演奏の責任の他に、聖なる怪物である聴衆がそこにいるからです。何千人もの聴衆を前にすると、そのパワーに圧倒されそうになります。彼らの期待感が伝わり、キャリアを重ねるほどに責任も大きくなります。期待を裏切り失望させるかもしれない。聴衆もコンサートの一部だと思うので、積極的に参加し指揮者と交流すべきです。」
「ロンドンの聴衆はとても積極的で熱心です。彼らはいつまでも拍手を続けてくれ、演奏会の後で楽屋まで訪ねて来てブラヴォーでなくありがとうと言ってくれます。」
[ 2004年、5月6日付のコリエーレ・デッラ・セーラ紙のインタビュー ]
マエストロ、90歳のお祝いは?
「特別な祝い事はしません。3人の息子と嫁たち、それに7人の孫たちと一緒に夕食をとるだけですよ。」
薄暗い照明の部屋には、閉じたままのピアノ、テーブルの上には愛読書であるマンゾーニ「婚約者」、その他トルストイやドストエフスキーの作品が置かれている。そこには楽譜やレコード、CDなどは全く見当たらない。
マエストロ、音楽は・・・
「もう音楽は聴きません。私の録音ですらね。98年に、指揮台で気分が悪くなって以来、指揮はやめました。もうこれ以上振り続けることはできないと悟ったからです。指揮棒を置き、音楽から遠ざかり始めました。容易なことではありません。」
なぜ音楽と別れたのでしょう?
「感動しすぎるからです。もう考えたくないのです。今、音楽について話すのは、誰か他人が話をしているような感じなのです。音楽をすることは、全身全霊を打ち込むことが要求されるのです。」
音楽に惹かれたきっかけは?
「両親と共にボルツァーノに住んでいた頃のある日、広場で誰かが弾く楽器の音に魅了されました。私は父に、その楽器(ヴァイオリン)をクリスマスプレゼントにくれるよう頼みました。初めは遊びで弾いていましたが、やがて本気で学ぶようになりました。そして20歳の時、ローマでアウグステオのオーケストラのオーディションに合格したのです。忘れがたい幸運でした。」
指揮に魅力を感じたのは?
「ローマで作曲科の最後の試験を受けた時でした。オーケストラを指揮できると知った時、強い願望を感じたのです。私の最初のコンサートであり、このとき指揮というものの奥深さを知りました。その後の発展は、周囲から与えられたものでした。私は誰にも何かを求めたことはありません。オーケストラには常に私自身の解釈を提示しました。ウィーンやベルリンに行って、著名な楽団員に私の解釈で演奏するよう要求するのは易しいことではありません。しかし実際は、ウィーンからベルリンまで、幸福なコンタクトを持つことができました。」
インタビューは更に続き、好みの作曲家はハイドンからヒンデミットまでで、それ以外は自分自身の中に感じることができず、自分の中に感じられない作曲家の作品は演奏しなかったこと、若手の指導に尽力したが、指揮すなわち感情を身体で伝えることを教えるのは難しいこと、などを語った。また今では、テレビではサッカーしか見ない(少年時代からユベントスのファンだそうだ)ことや、改修されたスカラ座を訪れるつもりはないと言い、完全に音楽から身を引いたことを明らかにした。
1982年 ロス・フィルと来日時のインタビュー
* 一部割愛・表現の変更を行った部分があります。ご了承下さい。
[ 聞き手 黒田恭一氏 ]
まず、レコードのことからうかがいたいのですが、レコーディングはお好きでしょうか?
好きではありません。しかし、レコードは、この時代には重要です。何百万人という人々に、音楽を聴く機会を与えてくれるのですから。レコードがなければこうした音楽を聴くことができないような、小さな村に住んでいる人たちにもね。ただし、レコード自体には、私の感情に反する部分があります。私たちは常に、聴衆に向かって生の音楽を作りたいと思っていますから。しかし「音楽に奉仕する」という重要な見地からすれば、レコードは作る価値があると思います。
そうすると、ジュリーニさんの作られたレコードを、日本ではタタミの部屋で聴く人もいるわけですが、そういうところにもあなたの指揮された演奏が伝わると信じておられますか?つまり、レコードを、音楽を伝達するメディアと信じられるかどうかということですが・・・・。
ええ。音楽は500年位の間に発展してきたものですが、日本の聴衆は非常に短期間に、おそらく50年位でしょうか、驚くほど成長を遂げました。その吸収能力、音楽に対する関心は信じがたいほどです。来日は今回が3度めですが、東京にいても、今自分がウィーンにいるのかロサンゼルスにいるのか完全に忘れてしまうほどです。このような聴衆に向けて音楽を作ってゆく時、私は日本の小さな村にも同じような人たちがいて、タタミの部屋で私たちの音楽を同じように受け取ってくれるだろうと確信できます。
指揮者によっては、ベートーヴェンの9曲とかブラームスの4曲といったように、「全集」としてまとめてレコーディングするのを好む人もいるようですが?
レコーディングに当たっては、私は自分の肉体の一部、経験の一部になり切った作品だけを取り上げたいと考えています。そして、これは録音してもよい時期になったなと自分が感じた瞬間を大切にするのです。ですから、全曲録音をあらかじめ計画するというようなことはありません。何年か経って、例えば結果的にブラームスのレコードが全曲揃うということも起こり得ますが、前もって1番から順に録音するということはないですね。
モーツァルト、ロッシーニ、それにヴェルディのオペラは指揮なさいますが、プッチーニのオペラは指揮なさいませんね。プッチーニはお嫌いですか?
(笑)その通りです。私はノー・プッチーニです。私はプッチーニは全く指揮しません。ただ、これは私のせいで、プッチーニを聴くのは大好きですが、指揮はしません。ずっと若い頃に、ラジオ放送のために「ラ・ロンディーネ」というあまり知られていないプッチーニのオペラを指揮したことがありましたが、それがただ一度だけです。
プッチーニを指揮なさらない理由がおありなのですか?
これはなかなか難しいのですが、音楽家には2つの側面があるのです。ひとつは音楽家であること、もうひとつは演奏家であることです。音楽家はスコアを広げて眺め、それを楽しむだけでいいのですが、演奏家となると、そのスコアを生かさなくてはなりません。そして、それが自分の肉体や血、つまり生命の一部であることを確信しなくてはなりません。プッチーニは天才で、私は取るに足らない人間ですが、目下のところ、彼の作品を指揮する気になれないのです。もちろん、「ボエーム」などを聴くのは大好きですが。
そのような、プッチーニに対してのお考えは、R.シュトラウスのオペラについても同じでしょうか?
そうですね。私の指揮者としての生活・活動の中に、R.シュトラウスのオペラはないのです。私は何でも、それもたくさんの指揮はしたくないのです。スカラ座やコヴェント・ガーデンなどでオペラを指揮しましたが、その後は長い間シンフォニーばかりになりました。でも将来はわかりません。シュトラウスがプッチーニと全く同じというわけではありませんね。
たくさんは指揮したくないとおっしゃいますが、僕ら聴き手としてはジュリーニさんの指揮なさった演奏をたくさん聴きたいと思っていますが・・・・。
ありがとうございます(笑)。ご親切ですね。でも、この素敵な質問への最良の答えとしては、私は聴衆の方々に私の最良のものを聴いていただきたいということなのです。最良のものというのは、自分がそう感じたものだけなので(笑)。
その、更に聴きたいもののひとつにワーグナーがあるのですが・・・・
ありがとうございます。それは実現できればと思っています。ただ、将来は全て神の手の中にありますからね。どうなるかはわかりません。
別のインタビューで、ベートーヴェンの第5交響曲を長い間指揮されなかった理由として、「何か疑いが残っていた、あるいは解決できなかったことがあったから」と答えていらっしゃいましたが、他にもそのような疑問点があって取り上げられない曲がおありですか?
それはもう、たくさんあります(笑)。シンフォニーそれぞれで問題は違います。同じ曲を何回オーケストラと演奏しても、どうも満足できず、その理由も明確にならないことがあります。すると、やめてしまうのです。そして、私自身でその解答を見つけようとします。大切なのは、私自身がその答えを見つけることなのです。現在でも、演奏の度ごとに、もっと良くならないかという思いは強く、終わりはありません。私がまだ答えを探し続けている曲はたくさんあります。私が取り上げない曲は、そういった理由があるのです。
では、今回のプログラムについて。前半が、ヴェルディの序曲と前奏曲のみを集めて、組曲というか、シンフォニーのように組み立てられていますね。こういうプログラムは、比較的最近になって始められたのでしょうか?
ブラヴィッシモ!あれが一つのシンフォニーとして組み立てられているとよくお分かりになりましたね。序曲の合間には拍手をされないよう、アナウンスを入れてもらうことにしたのです。まさにご指摘の通り、私としては一曲のシンフォニーとして考えているのです。
こういう考え方は、ワーグナーの作品などでも適用できそうですね。
そうですね。可能ですが、ヴェルディの場合と同じようにはいかないでしょう。楽器編成も、音色のコンセプトも違いますし。ワーグナーでも確かに可能ですが、ヴェルディの場合のような強烈な性格の違いが出るかどうかですね。
グローヴ音楽辞典で、ジュリーニさんはトスカニーニと比較されていますが、彼のリハーサルのレコードをお聴きになったことはおありですか?
ええ、トスカニーニの娘さんから、ずいぶん前に一枚もらったことがあり、それだけは聴きました。
そのリハーサルでのトスカニーニは、威嚇的というか、絶対的権力をもって指揮しているという感じですが、トスカニーニのリハーサルについてはどうお感じになりますか?
トスカニーニの名は既に形容詞のようになっています。トスカニーニは音楽史に残る数少ない演奏家の一人だと思います。彼は、自伝的なものも覚え書きも一切書いていません。しかし歴史に残る人物だと思います。トスカニーニは偉大な指揮者であったということだけでなく、オーケストラに新たな次元を与えたという理由で音楽史に残ると私は思うのです。ロマン主義的考え方に基づいて、「作曲家はこう書いた。しかし現在は自分がこうしよう。」と解釈を加える者が多かった中で、トスカニーニは「真実はスコアにある」としたのです。トスカニーニがリハーサルで行ったことの全てはそこから来ているのです。当時は音楽的レベルも、人間的・社会的・労働組合的考え方も今とは全く異なっていたのです。音楽のイントネーション、パッセージ、テクニックも今とは比較にならないほどでした。トスカニーニのような音楽家がパッセージを作り、これが習慣となっていったのです。
トスカニーニが音楽の次元を変えたように、演出家としてのヴィスコンティ、文学の分野でのモラヴィアやパヴェーゼ、そしてジュリーニさんも含めて、それぞれの分野で傑出した天才が突然出てくるところが、イタリアという国の素晴らしいところだと思いますが、ご自身ではイタリアという国をどうお感じになりますか?
まず、そのリストから私の名は削って下さいね(笑)。私は音楽家であり演奏家であり、できる限り音楽に奉仕したいと考えているだけで、それ以上の人間ではありませんから。創造とか、トスカニーニの例とは全く異なるのです。私の国についてのご質問ですが、それは私の肉体と心と愛に関わる問題ですから、客観的になることは難しいかもしれませんね。言葉は数キロ離れただけで違ってしまいますし、人々の性格も、地域が違えば南極と北極ぐらい違うのです。イタリア全体は、最高に美しいものが、限られた土地の中に集約されているのです。自然、天候、建築の全てにです。私はそのイタリア人であり、イタリアを愛しています。
僕もイタリアが大好きですが、日本人の目から見ますと、「オー・ソレ・ミオ」を歌う開放的なイタリアと、ランボルギーニやフェラーリのような凄い自動車を作るイタリアとが一緒になっていて、とても不思議な感じがします。
イタリアにいらしたことがおありですか。それは嬉しい。フェラーリやランボルギーニの名を出されたのなら、マセラッティのことも忘れないで下さい(笑)。マセラッティは友人ですから(笑)。イタリアは、ヨーロッパの中でも珍しく、強烈な個性を持った都市がたくさんあるのです。この多くの個性の違いがファンタジーを生むのです。そして時には混乱をね(笑)。イタリアが、国としての成熟を見るには、他国に比べてまだ経験不足だと思います。
貴重なお時間をどうもありがとうございました。最後に、ぜひともジュリーニさんにうかがいたいことがあります。あなたにとって、音楽とは何でしょうか?
(しばらくじっと考えて)生命です。音楽は、いかなる人にも一人残らず、想像力を通してこの生命を吸収することを許す芸術です。建築や絵画、彫刻や文学と比べても、音楽ほどそれを受け取る人間の想像力を自由に、そして豊かに生かす芸術はありません。
1981年、アメリカ西海岸の代表的な月刊誌「カリフォルニア」に掲載された、アラン・リッチ氏によるマエストロへのインタビュー記事をご紹介します。
なお、難解な表現の部分を意訳したり要約・省略した部分もありますのでご了承下さい。
ベートーヴェンの第5交響曲は、言ってみればクラシックの交響曲の中でも最も有名でよく演奏される曲である。この曲に関するニュースは、1ヵ月に日数と同じ回数だけ日が出て日が沈んだということぐらいの当然の意味しか持たないのが普通である。
しかし、ジュリーニがこの交響曲を少なくとも過去15年間指揮しなかった、というのは驚くに値する。大物指揮者としては異例の断行であり、さらにジュリーニのようにレパートリーを絞って、特にベートーヴェンを絶対重視している指揮者にとっては驚嘆すべきことなのである。
ロス・フィルとのリハーサルの合間にジュリーニから話を聞いたが、彼は以前の5番の演奏については語りたがらなかった。「憶えているのは、ただひどいものだったということだけです」としか言わなかった。
交響曲の傑作の演奏に失敗した、少なくとも彼自身の基準からは失敗したということが、ジュリーニをこの作品から完全に遠ざけてしまったわけだが、なぜそうせざるを得なかったのかを理解するためには、この人物を知らなくてはならない。何と言っても彼は真面目な人であり、自分の芸術の精神的な領域に情熱を傾けている。同時に彼は、自分の知識をオーケストラに完璧に伝達し得る魔術的魅力を備えた指揮者である。古典と、厳密に選び抜いたロマン派をレパートリーとするジュリーニは、音楽に対する情熱を燃やす中で、自分が昔ながらの音楽造りを尊重する人間であることを十分心得ている。つまり、指揮者たちが「スターウォーズ」のような曲を振ることを期待され、メディアの英雄として活躍する以前の時代の人間なのだ。
ジュリーニは次のように話してくれた。
「第5番で、私がいつも引っかかっていたのは、冒頭の部分なのです。ベートーヴェンが、なぜあの荒々しい巨大な冒頭部の後に、非常に細かな速い音符をすぐに続けて書いたのだろうか。この交響曲には、私の理解の及ばない矛盾があるように思えました。」
「それが、去年、実感したのです。この交響曲を無視して過ごすわけにはいかないとね。ベートーヴェンの初期の軽い交響曲、第1番、第2番、それに第4番も入れてもよいかもしれませんが、これらの作品にどうも共感できない人がいるというのは分かります。しかし、第5番はそう簡単にやり過ごすことはできません。そこで私は、戻ってみることにしたのです。実際に、ベートーヴェンの手稿をファクシミリ版で時間をかけて研究しました。彼の手稿を見ると、彼が作曲に当たっていかに苦闘していたか即座に分かります。あちこちが線で消され、書き直されています。ベートーヴェンの楽譜を、出版のために写譜した人物は、音楽史上の英雄と言ってよいでしょう。」
「この作品の手稿は、まるで戦場です。最初からベートーヴェンは悩んでいます。彼は最初の動機、ダ・ダ・ダ・ダーの4音を書き、4音目にフェルマータをつけて少し音を延ばすよう指示しています。次に、それに応える2小節を4音で、終わりの2分音符に前と同じくフェルマータをつけています。その後で、彼は考え直したのだと思います。おそらく、あの類稀な精神の中で、耳の状態は悪くなる一方であったにもかかわらず、このままではやや平凡だと聴き取ったのでしょう。そこで彼は、2度目に出てくる長い音をもっと長めにしました。2分音符を、もうひとつの2分音符とタイで繋いだのです。もともとの手稿の中で、まず音符を1つ書き、次いでもう1つ音符を加えてタイで繋いでいるのを見ると、彼がこの冒頭の部分をいかに考えていたかが分かります。4音の次に4音が来るのではなく、8音で一息となるべきなのです。」
「ベートーヴェン自身が書いた手稿に戻ってみると、音符を読むのだけでも一苦労ですが、彼が書いたもの、そして変更したものから多くを学び取ることができるのです。以前には合点がいかなかった、速いパッセージについても理解できました。ベートーヴェンは、スタッカートをつける部分とつけない部分を明確に書き分けています。つまり、このパッセージを音符として演奏してはいけないのです。指示されたディテールを正確に守って演奏すれば、単に細かい音符の羅列にはならないはずです。こうした事を全て学び取ったので、今では第5番を演奏する準備が整ったというわけです。」
ベートーヴェンの第5番には、丹念に編集され、慎重に印刷された多くの版が出ている。現在、指揮者がオリジナルの手稿に戻ってみる必要は無くなっている。と言っても、多くの指揮者たちは常に自分の得になると考えて、昔ながらの詮索を繰り返している。しかしジュリーニは、以前の誰よりも明確に、オリジナル楽譜から音楽家が学び取れることについて私に説明してくれた。作曲家が書いた音符そのものについてのみならず、その音符の裏に潜む創造の苦しみについて明かしてくれたのである。
さて、ロス・フィルとのリハーサルの初日。この日は、前回の演奏から約2ヶ月ぶりの顔合わせであった。ジュリーニの服装は、グレーのスラックス、淡いグレーのタートルネックのセーターに白いカーディガン。カーディガンはすぐに手近な椅子にかけた。挨拶の言葉は少なかったが、ジュリーニは冗談や馴れ馴れしさで点数を稼ぐような指揮者ではなく、あくまでも音楽を通してオーケストラと関わり合うのだ。
リハーサルのやり方は、指揮者それぞれに違う。ジュリーニは、粘り強く理論的に細部のもつれを解いていこうとする。絶えず首席奏者を呼んでアーティキュレーションの重要な点をクリアーにしようとする。ジュリーニのリハーサル中の態度は、聴衆を前にした時の落ち着き払った、一種のそっけなさとは対照的に、非常に民主的である。ジュリーニは決して格好をつけたりしない。面長の、彫りの深い貴族的な顔には音楽が絶えず映し出され、左手はまるで音の大きさをつかむかのように大きくカーブを描き、長い足は支柱が傾いて今にも倒れんばかりといった具合に広げられている。しかし、これはショーではない。身体全体が指揮をしているのだ。
時々、彼は言葉に詰まり、身体がその代わりをする。「どうか、頼むから・・・」と、そんな時に彼は静かな声で哀願する。オーケストラにはいつもそんな風に話しかけるのだ。「どうか、このパッセージはもっと・・・・・」と言ったままセンテンスを終わらせることができず、代わりに弦楽器を弾くようなポーズをとる。右腕は弓になり、曲げた左腕の肘が楽器となる。すると今度は、コンサートマスターのシドニー・ヴァイスがジュリーニの要求をもっと実際的な言葉でオーケストラに説明する。あるいは、オーケストラは即座にジュリーニが何を望んでいるかを感じ取る。
コンサートマスターのヴァイスは、仕事熱心だが恥ずかしがり屋のため、自分の仕事についてあまり多くのことを語りたがらなかった。私はその気持ちを尊重した。代わりに、このオーケストラを含めて多くのオーケストラで豊かな経験を持つベテランの、ヘイグ・バリアンに話を聞いた。「あなたは、本番だけでこの第5交響曲を何回くらい演奏したのですか?」という私の問いに、彼は「そうですね。おそらく200回ぐらいでしょう」と答えた。私は続けて、「そんなに数多く演奏していれば、新しく意識を持って演奏することなど可能なのでしょうか?もう指が勝手に動くのでは?」と尋ねた。彼の答えは、まるで宣伝の文句のように鮮烈だったが、本当に心からのものだった。
「いいえ。ジュリーニとの場合にはそうはいきません。彼は、この曲をまるで新しいものにしているのですから。」